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日本語教師プロファイル奥村三菜子さん―大切なのは好奇心を持ち続けること

今回お話を伺ったのはNPO法人YYJ副理事であり、『日本語教師のためのCEFR』(くろしお出版)の著者の一人でもある奥村三菜子さんです。奥村さんは先日、米国のプリンストン大学日本語教育フォーラムにて基調講演者として登壇し、「ことばの教師の内省と変容―『わたしの棚卸し』のススメ」のテーマでお話をされました。このインタビューでは奥村さんが日本語教師を目指したきっかけから、継承語教育やCEFRの研究、コース改革やNPO法人での取り組みまで、大変貴重なお話を伺うことができました。

日本語教師デビューは中国で

――日本語教師を目指したきっかけは何だったんですか。

高校1年生の夏休みにオーストラリアの一般家庭でホームステイをするプログラムに参加しました。その時、ホストファミリーのお子さんが日本語学習をしている人で、私も学校について行って日本語の授業を受けている場面を見ることができたんです。日本語を外国語として学ぶ姿というのは、とても新鮮でしたね。それがきっかけでこの職業を知って、それこそアルクの本や雑誌を読み漁りました。大学に入る時、専攻は英語でしたが、副専攻として日本語教育を取ったんです。

大学時代に中国に語学留学していた時、日本語を教えてみたら?とお声掛けいただいて、興味もあったし、引き受けたんですが、なんかうまくできない、分からない。ということでやっぱり420時間を受けなきゃだめだと思い、大学卒業後、養成講座に通いました。日本語教育能力検定試験も受けました。

それでいよいよ職探しというとき、未経験では国内で教える場所があまりなくて、中国の大学に採用されました。もともと中国語にハマって中国への短期留学を繰り返していましたし、子どもの頃から田舎で育ったわりに、英語を使って外国人と交流したりする場が身近にあったので、海外で生活するということにハードルはありませんでした。

中国で教えた大学は日本語教師1年生にとっては、とても恵まれた環境だったと思います。学生の質、モチベーションも高かったですし、ノンネイティブの先生方が素晴らしかった。私は体育会系的なところがあるので寝ずに準備するとか必死にやりましたが、本当に皆さんに可愛がっていただき、2年の任期で貴重な体験をさせていただきました。

国際交流基金派遣でドイツへ、子どもの日本語教育との出会い

――中国から戻られてからはどうなさったのでしょうか。

はい、これで教師として一応経験2年と言えるようになりました。次、どうしようかなぁと考えていた時、国際交流基金が一般公募の形で日本語教育派遣専門家を募集していたんですね。レベルが高い求人だったのでダメかなと思っていたんですが、運よく受かっちゃった。20代は私を含めて2名しかいませんでした。それでドイツのケルン日本文化会館という国際交流基金の拠点に派遣されることになりました。

ここは中国での仕事とは全く違いました。当時のヨーロッパでは珍しく初級から上級までのコースが日本文化会館の中にありました。基金の新しい取り組みを試すパイロットコースの性格も持っていたのでコースデザインや教材作成、現地での教師養成など様々なことのお手伝いをしました。学習者は一般市民で文化交流の一環としての語学コースという色合いが強かったのです。とにかく続けてもらうことが大事なので、クラスは和気あいあいと柔らかい感じでやっていました。

仕事としてはファンクショナル・シラバスを入れて、シラバスの大改訂をやっている時期だったので、すごく忙しかったです。教材作りのセミナーや研修にも関わらせてもらいましたし、学習者に大量のアンケートを取って、共同で論文発表もしました。

大変でしたが、「あの時の経験があるから今がある」と思いますね。教材に頼らないというか、「教科書がこうだから、できない!」と逃げ口上を言わない教師にはなりました。

実はケルンの任期が終わった後も、ビザが残っていたんです。それでちょっと疲れちゃったし、ふらふらしようかと思いました。その頃、日本語補習授業校から教員不足なので手伝ってくれないかという話がありました。そこが現地校の校舎を借りていたので、その学校に通うドイツ人の子どもへの日本語教育もやってくれないかと言われ、結局、日本にルーツを持つ子どもたちへの国語の授業とドイツ人の子どもへの日本語の授業を受け持つことになりました。もともと子どもの教育に興味があってボランティア活動などもやっていたので、喜んでやらせてくださいと。そこでは高校生の継承語のコース等もやらせてもらいました。

そんなことをしているうちにボン大学で非常勤講師をやりませんかというお話があり、現地で就職することになりました。基金で派遣されたのとは違い、お客様ではなくドイツ社会にどっぷり入れた気がしましたね。いろいろな人との出会いがあり、いろいろな生活を見ることができました。とても視野が広がったと思います。滞在許可を延長し、ボン大学の非常勤、プライベートレッスン、補習授業校での日本語教育をやっていました。

でも継承語教育はやってみると本当に難しくて、国語でもなく日本語でもない。年少者の日本語教育というものをきちっと勉強したいし、研究もしてみたくなりました。それで大学院に行こう!と一旦日本に帰ることにしました。

再びドイツへ、本格的にCEFRに取り組む

――帰国されてから東京学芸大学の修士課程に進むわけですね。

はい、当時まだ本格的に年少者の日本語教育に取り組んでいるところが少なかったのですが、私が向かう先に一番近いのが学芸大でした。ドイツの家はそのままにして、調査研究のために二拠点生活(というほどカッコいいものではありませんが)でした。ドイツにあった補習校14校全部の調査を行い論文にあげて無事修了。終わって補習授業校に戻る気満々だったのですが、週1回のパートタイムでは労働ビザが出ません。いろいろ悩んでいたところにボン大学からうちで働きませんかというお話をいただきました。それでボン大学の正規教員をしながら、土曜日は補習授業校に行くという形で、そこから10数年ドイツにいました。

――CEFRにはいつ頃から関わるようになったのでしょうか。

CEFRは2001年に一般公開されていますので、国際交流基金にいた時に既に知ってはいました。その頃アメリカやオーストラリアでも言語教育のスタンダードが公開されていて、そんな流れの一つだという印象でしたね。本格的に関わるようになったのはボン大学に入ってからです。2004年ごろボローニャ・プロセスというヨーロッパの大学関係者の会議があり、EUの域内で学術交流を自由にできるようなシステム作りの取り決めがなされたんですね。ボン大学もこれを受けて語学教育に関してはCEFRを基盤にするということが決まりました。今までのシラバスを全部そこに整え直さなければなりません。振り返ると私、どこに行ってもコースデザインの改革期に当たっちゃう(笑い)今までいくつシラバス作っただろう……。

初めはとにかく急がないといけないということで、それらしいCan-doを集めて、見た目だけはそのように作りました。しかし実際、授業をやってみると、あれ?これでいいのだろうかという疑問が教員たちから出てきました。そこから試験のやり方、出題の仕方、コース全体の流れも見直し、一歩一歩大改革が始まった感じです。私はただの常勤講師だったのですが、チーフの方がご家庭の都合で一時的に転勤されたこともあり、コース主任を引き受けることになりました。

ヨーロッパではそれまで日本語教育関係者は国別とか大学別に動いていたものが、CEFRを軸に集まるようになり、いろんな国の先生方と交流が始まりました。ヨーロッパ教師会ではCEFRができた直後にも調査を行いましたが、2010年頃、CEFRから10年ということで大規模なプロジェクトが立ち上がりました。その中で私は教師研修支援というチームに属し、調査や研究を行いました。2016年に出版された『日本語教師のためのCEFR』(くろしお出版)は、この時のプロジェクトの成果物なんです。共著者の櫻井さん、鈴木さんは同じチームのメンバーでした。その頃、ヨーロッパではCEFRに関する研修がたくさん動いていて、3人ともあちこちで研修講師を務めていました。そこで皆さんからいただいたアンケートやワークショップでの実践などの知見を何かの形で残したいと思った時、最終的に出版物という形に落ち着いたんです。(CEFRカルタを作れば?とか研修キットを作ろうなどいろいろアイデアは出たんですが)

――日本でもCEFRへの関心は高かったと思いますが。

はい、私もいくつかの大学に研修を依頼されました。ただ、誤解されがちなんですが、CEFRは教授法や評価法ではありません。実はスタンダードですらない。ヨーロッパという地域の、言語も文化も価値観も全然違う人たちが一つのリファレンスで教育を進めていくという発想自体が新しいものでした。学習者を一つの枠に押し込めて教育を受けさせるのではなく、学習者一人一人が主体となって自らの学びを自由に展開していくという考え方が背景にあります。

学習者の学びに自由度を与えるためには、教師にも自由を

――日本への帰国は2013年ですね。

はい、帰国してからはお茶の水女子大学で日本人の学生を海外に送り出すプロジェクトや、提携校の学生を受け入れる夏休み短期プログラムの設計に携わった後、環太平洋大学短期大学部の留学生別科でCEFRを応用した留学生教育を行いました。

お茶大の短期プログラムの時、こんなことがありました。非常勤で来た先生から「こんな経験は初めてで、この1か月すごく楽しかったです。」と言われたんです。「どういうこと?」と思ったのですが、聞いてみると「好きにやらせてくれたから」と。そのプログラムではCan-doと最終ゴールは決めていましたが、授業のやり方や個々のワークについては自由にしていいと言っていました。そういうことが、その先生にとっては初めての経験で楽しかったのだそうです。それまでは決められたものがあって、その通りにしなければならなかったらしいんです。

私は学習者の学びに自由度を与えるためには教師自身も自由にならなければいけないと思っています。CEFRと出会ったことで、教師も学習者もソーシャル・エージェントであるという考え方を知りました。学習者の言語能力が凸凹しているなら教師の教授能力も凸凹していていい。いろんな人がいていろんな方法があるから教育組織も豊かになると考えます。もう少し学習者も部下も信じていいんじゃないかと思います。先生たちがのびのびしている学校は学習者もいきいきしていますから。

その後、パートナーの転勤の都合で鹿児島に行くことになり、いくつかの告示校などで非常勤講師として勤めました。そこで目にしたのは文脈や背景のインプットのない短文作成練習やパターンプラクティスでした。これはさすがになぁ……と。CEFRの知識を直接導入するというより、もうちょっと第二言語習得の理論に基づいて、今までやっていたものに文脈と意味を与えるという意識を先生方にもってもらいたいと思いました。Can-doベースで骨格を作ると、そこに文法や語彙や言語知識がどう紐づくか見せやすくなりますよと。学習者評価も「(  )に助詞を入れましょう」じゃなくて、その言葉を使って何が本当にできるのかを見ましょう、と。

最終的に2023年3月まで勤めていた告示校では知識試験を全部撤廃して、パフォーマンス試験オンリーにしました。ルーブリックだけで点数も出しません。全項目のA1~B2ぐらいまでのレダーチャートがあなたの成績ですとしました。ルーブリックは教師全員で話し合って作りました。

評価を変えたら、「できる学生、できない学生」という言葉がなくなった

――あの…、知識試験をやめるということに先生たちの反発はありませんでしたか?

それが、案外なかったんです。でもそれは、突然やったんじゃなくて、そこには7年ほど勤めていましたから。そこは、最初はシラバスが1週間ごとに出てくるような形で、前日にならないと授業の準備ができませんでした。それはさすがに負担が大きいので、もうちょっと脈絡のあるシラバスを作りませんか?と提案して。で、これは私のポリシーでもあるんですが、文句を言うからには自分で現物を作る!口を出すだけじゃなくて手足も動かす!誰よりも教案をちゃんと作る、それを隠さずに全員に見せる、授業見学も受ける。これはボン大学で学んだことです。改革する人間は自分が一番最初に動かなきゃいけない。

その学校でもちょっとずつ変えていきました。そのうち先生方から教科書を『まるごと』(国際交流基金)に替えたいという意見が出て、『まるごと』研修やCEFR研修も皆さんと一緒にワイワイやりながら徐々に移行してパフォーマンスオンリーまで意識が変わっていったという感じですね。小さい学校でしたが、小さいからこそできた、とも言えますし、また小さくてもできたとも言えると思います。またラッキーなことに経験の浅い教師の中に海外経験がある人が多かったんですね。それでどんな言語教育が役に立つか立たないかご自身が身をもって経験なさっていたんです。

それから良い変化として、Can-doベースにすると学習者のいいところを探すので、教員室で「学習者が○○ができなかった」という発言がなくなりました。「できる学生、できない学生」という表現も使わなくなったんです。

――学生たちの反応はどうでしたか。

それはちょっと心配でした。結局何点ですか?って言ってくるんじゃない?って。でも蓋を開けてみたら、それもありませんでした。テストの時だけ点数をつけなかったわけじゃなく、普段の授業から数字が出るものを一切やっていませんでしたから。それで私も大発見だったんですが、数字がないと隣の人と比べられないんです。上か下かとか、この人の方が高い、低いということがなくなり、この人はチームリーダー、この人は面白い人、文法が正しい、漢字に強い、等クラスメートを個性で見るようになりました。そして自分のルーブリック評価はめちゃくちゃ真剣に見ていました。

YYJ(ゆるくてやさしい日本語のなかまたち)での活動

――YYJへの参加はどういったことだったのでしょうか。YYJの代表理事である大隅さんにはこの「日本語教師プロファイル」で以前インタビューをさせていただいたんですが。

えーと、大隅さんが2017年頃Zoomで参加していた反転授業の勉強会に私がヨーロッパで親しくしていた方がいて、イベントに誘われた形です。その時は1回きりのつもりだったんですが、次にこんなことをするんだけど一緒にやろうよとまた誘われて。鹿児島の告示校で自主勉強会という形でやっていたことを、YYJでやってみれば?ということで本格的にコミットすることになりました。今YYJでやっているのは新任教師向け研修の「日本語教師学び隊」、中堅向けの「日本語教師学び隊ぷらす」です。

NPO化したほうが信頼度も上がるし、活動の幅も広がるということで2019年にNPO法人になりました。他に継続してやっていることは、ティーチング・ポートフォリオ・チャート。これは最初、開発者の栗田先生に来ていただきセミナーを行った後、定期的に開催しています。「日本語教師学び場」ということばや学びに関わる方々にお話しをしていただく会をもう50回以上実施しています。

それから読書会も実施していますね。だいたい年間3、4冊です。今は、CEFRの輪読会も行っています。

そのファシリテーションを当初は私たちがやっていたのですが、今は正会員の方にやっていただいています。自分たちがやっていたことをどんどん手放して、皆さんがやりたいことをできる場を創っていきたいんです。「日本語教師学び隊」の方も今期から一人で講師をやるのではなくサブ講師に入ってもらっています。これもいずれ手を放していきたい。後継者、次の世代をしっかり育てていくことが重要だと思っているからです。カリスマ的教師とか、非常に輝きを放つ一人の人材を育てるより、教育界に貢献できる次の人材をどんどん増やしていくことの重要性をだいぶ前から感じています。そういうことがNPOの方がやりやすいかなと感じています。思ったことを即実行に移せる機動力がありますし。人育てをしたいという思いが湧き上がってきた時に大隅さんたちと出会ってYYJに関わることができてありがたかったと思っています。

――YYJからは日本語教師という仕事に興味がある人のための『日本語を教えてみたいと思ったときに読む本』(コスモピア)も上梓されてますね。

――現在は松山にお住まいということですが。

はい、定職はまだないんですが、文化庁の地域日本語教育の体制づくり事業にワーキンググループのメンバーとして関わっています。現在、愛媛県には日本語教育人材の養成機関がほとんどないので、そこに何かできればと。

思考停止にならないで

――これから日本語教師を目指す人にアドバイスがあればお願いします。

そうですねぇ。思考停止しない教師になってほしいことですかね。ボランティアの方や自分も含めて、言葉の教育・支援に関わる全ての方に。決められたことをきちっと守れるのも素晴らしい気質ですが、協調だけでは新しいものは生まれない。協働って、ただみんなが集まって時間を過ごせば協働になるわけではなく、傷ついたり、悔しいこともあって、コンフリクトを乗り越えた時に、新しい価値観が生まれてくる可能性があります。

人が言うことに対して、「そうだね」で終わらず、「そうだね、でも私はこう思うんだ」と言える空間作りも大切です。その空間作りをみんなでできる能力。自分が思っていることをちゃんと言葉にできる能力ですかね。せっかく言葉の教師なんですから。

言われたことに従うだけでない、決められたことをそういうものだと諦めることもしない、自分が本当は何を思っているのかをちゃんと言語化できる教師になっていただければと思います。そうすれば、飽きないんじゃないかな。そのために何が必要かっていうと、好奇心ってことにつきるかな。嫌いなこともネガティブなこともなんでだろう?という思いを持ち続けること。

日本語教育にしても、オーディオリンガルからコミュニカティブ・アプローチ、行動中心アプローチとたかだか30年の間にこれだけ変わったんですから、まだまだ変わっていくはずです。ですから好奇心は持ち続けてほしいです。

 

取材を終えて

予定をオーバーして2時間を超えるインタビューの中、本当に心に響く数々の言葉をお聞きすることができました。また私自身、ご著書を読み理解していたつもりでしたが、CEFRについて分かっていなかったということに気づかされました。CEFRの理念である複言語主義、言語、文化の多様性を認め、お互いを尊重する人材を育成すること、それらをもう一度心に刻みたいと思います。

取材・執筆:仲山淳子

流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。6年前よりフリーランス教師として活動。

 

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