心に残った原体験
――日本語教師になったきっかけを教えていただけますか。
それはもう、一言で言うと日本語学校に生まれちゃったから(笑い)。父が静岡日本語教育センターを設立した石原康彦で、小さい頃から日本語を学ぶ外国人、外国語を学ぶ日本人を見て育ちました。私も父の学校で中国語を習っていましたし、父はいろいろなところに私を連れていきました。その中で特に印象に残っていることがあります。休みの日だったかに静岡の公営団地に連れていかれたんです。そこには中国人のご家族がいました。中国語で泣きながら何かを訴えていて、父が一生懸命中国語で慰めていました。帰りの車で私は「あの中国人のおばさんはなんで泣いていたの?」と聞きました。すると父が「あの人はね、中国人じゃなくて、日本人だよ」って言ったんです。びっくりしました。その方たちは中国残留孤児とその家族でした。彼らは日本に帰国したけれど日本語ができなくて、仕事もできない。それでとても困って泣いていたんだと説明してくれました。
私はまだ6歳か7歳の頃でしたが、すごく深く心に残りました。まずは父の姿。言葉ができるっていうのは他の国の人の悲しみに寄り添えるんだ。パパ、かっこいい! と思いました。
もう一つは、日本人として生まれたから日本語が話せるわけじゃないんだ。歴史とか戦争とか生き別れとか、そういうことで言葉って決まってくるんだと思いました。それは、私が言葉を学ぶってどういうことなんだ? と思うことの原点になっていますね。
大学で副専攻は取ったけれど……
――では、その後は大人になったら日本語教師になるんだと思いながら成長した感じですか?
あはは、それがそうはいかないんですよ。やっぱり親だから、反発とかもあって。でも、なぜかうまいこと嵌められてというか、気がついたら大学で副専攻もとっていて。就職は自由に好きなことをやろうと思っていたんですけど、うまくいかなかった時に連れ戻されて、父の学校にとりあえず入らされました(使役受身!)。だから最初はやる気ない感じで静岡日本語教育センターに入ったんです。
で、ある日、父にパンフレットを二つ出されて、どっちがいいか聞かれたんです。一つが中国杭州の「桜花日語専修学校」、もう一つがベトナムホーチミンの「ドンズー日本語学校」でした。それでお前は海外で修業してこい、と。中国語は小さい頃から習わされていたから、じゃあ中国かな、と。今、考えたらどっちもノーという選択肢もあったはずだけど、まんまと父の術に嵌って杭州に行くことになりました。
中国で根性を叩き直され
そんな調子で行ったんですけど、国際交流基金の専門家になる前の松浦とも子先生が作られた学校で、すごい勢いで学校が大きくなっていて、学生たちの熱量もすごかった。杭州は裕福なご家庭の子女が日本に留学したいと集まるようなところだったんですが、周りの農村部から来た、一族郎党から借金してタコ部屋みたいな宿舎に住みながら勉強している学生たちがいて、すごくギラギラして教室に座っていました。そんな中に忘れられない一人の学生がいました。とても成績の良い学生でした。
ある日、彼女が私のところに来て、「先生、辞書を買ったんです」と言って見せてくれました。あの頃、中国によくあったポケット辞書です。辞書を買うために昼ご飯を一週間抜いたと話してくれました。「そうですか。じゃあ、おなかがすきましたね」みたいな話をしたとき、彼女が「はい、ですから、私は毎日『あ』から順番に覚えます」と言ったんです。
え? ちょっと待って。辞書ってそうやって使うもの?
その時、本当に背中がすぅーっと冷えていくのを感じました。この国の人はこうやって外国語を勉強するんだ。辞書を見たら「あ」から順番に覚えていこうと思う人の集団なんだ! 中途半端に教えていたらダメだとすごく自分を恥じたんです。嫌々来て、なんでもかんでも親にやらされたとか言って。
そこから毎日、死に物狂いで教案も書くようになりました。一緒に働いていた日本語教師の方々もビジョンも行動力もある素晴らしい人たちでした。大きく影響を受けました。
中国には3年いましたが、一時帰国の際も実家でダラダラしていないで、各地のセミナーや勉強会に足繁く通うようになりました。ある日、ふと後ろを見たら父と母が手を取り合って、泣いて喜んでいた。「どこの方が帰ってきたんでしょうか」と。まあ、ある意味、両親の目論見通りになったわけなんですけど。
日本語教師第二章はシンガポールで
――その後、シンガポールに行かれたのですか。
いえ、その前に大学院に行きました。清ルミ先生の下で学び、修了後にシンガポールのナンヤンポリテクニックForeign Language Centreの非常勤講師として教え始めました。
その後、常勤にならないかと声をかけて頂いて、面接に行きました。面接官の方が私の履歴書を見て、杭州にいたのか? と。翌週杭州に行くそうで、杭州の情報を中国語で聞かれたんです。それで中国語で答えたら、合格しました。たぶんシンガポールって複言語であることを評価してくれる。ティーチングフィロソフィーなどを聞かなくても、私の人となり、文化観をそこからピックアップしてくれたんだと思います。その時は中国語ができてよかったと思いましたよ。
シンガポールには国立の大学が3つとポリテクニックが5つあり、イギリス式の教育システムでホワイトカラーになる人とノンホワイトになる人のパスが分かれていきます。ポリテクニックは手に職を付けていく人たち。手に職といってもケミカルエンジニアリングとかバイオエンジニアリング、あとはデザインやホスピタリティなどもありました。
シンガポールは本当に小さい国で水さえ輸入しているんですが、「We have no resources, but human resources.」というのが基本的な考え方なんです。だから教育にすごくお金を使う。教育にお金を使うとはどういうことかというと、つまり教師の給料がいいわけ。さらにナンヤンポリテクニックは資金が潤沢でした。毎年、使いきれないほどの金額を自分の研究、研修のために使わないといけない。そこでありとあらゆる勉強をさせてもらいました。といっても、現在は方向転換をし、外国語センターは縮小の一途をたどっています。仕事を失った日本語教師も多数います。ドラスティックに政策が変わるのもシンガポールならではです。
――そこではどのようなお仕事を
ナンヤンポリテクニックで教えていたのは一般教養としての外国語なのでJapanese 1がほとんど。コーディネーターとして年間1000人の学生たちのコースを作ったり、非常勤の先生たちを束ねるようなこともやっていました。
United ColoursというチームをForeign Language Centreで作って政府のコンペに参加したとき、私がデザインしたEテキストブックが優勝したんですよ。学生にアニメを描いてもらって。これが、シンガポールの国防省に採用されました。シンガポールは徴兵制。徴兵されている間に色々なコースがオンラインで提供され、除隊後の就職に備えるんです。地図にない秘密の島に行ってデモンストレーションをやったりということもありました。レアすぎる体験でした。
学生のフィードバックで優秀賞受賞
――その後、シンガポール国立大学に移られるわけですね。
シンガポールで一番日本語教育のレベルが高いのがそこです。ポリテクニックでは初級レベルがほとんどですが、シンガポール国立大学(NUS)ではN2ぐらいまで行きます。元々優秀で、子供の頃から英才教育を受けてきた子たちにトレーニングすると、こうなるのか! と思うぐらい爆上がりしますね。ですから、NUSで教えるのは、刺激的で楽しかったです。
いろんなエクスチェンジプログラムで日本の有名大学に行くのですが、みんなちょっと下手になって帰ってきちゃう。たぶん、日本には日本語が溢れていて、単語でも通じちゃうので。一方、NUSのほうでは、きちんきちんとプレゼンまでできるように積み上げられている。1学期抜けて、日本から帰ってきた学生は、それについていけなくて、成績では下になってしまうという現象が起きました。もちろんこなれた日本語はできるようになっているんですけどね。
――2014年、2015年には優秀講師賞を受賞されていますね。
はい。シンガポール国立大学はリサーチャートラックとティーチングトラックがはっきり分かれています。ティーチングトラックの教員は学生のフィードバックで評価され、受賞のチャンスがあるんです。それは学生のコメントの質で選ばれます。当時の学生たちが私の授業についてすごくたくさん書いてくれました。その時の授業では様々なタイプのロールプレイを創作しました。『みんなの日本語』の文型を使ってありとあらゆるシチュエーションのロールプレイを私が創作するんです。これを続けていると、学生が自分でどんどん創作できるようになる。初級でこんなに生成できちゃうんだ、と学生も驚きます。こうなると、次はうまく発音したくなってくる。そこで発音指導にボイス入力を取り入れる。そんな点を学生がすごく評価してくれたんだと思います。
日本の大学での経験が浅いので、分かりませんが、シンガポール国立大学のティーチングトラックという考え方が素晴らしいと思いました。常勤も非常勤も、ちゃんと教育力を評価する。研究力だけで教員を見ないんですね。
息子の治療のため、日本とシンガポールを往復する
――その後、ご結婚、出産となるのですね。
はい。出産後3か月ぐらいで仕事に復帰しましたが、息子にてんかんがあることが分かり、日本語教師は開店休業状態になってしまいました。まずは治療ということで、日本のてんかん治療ってどうなってるのかなとGoogleで調べたら、一番上に出てきたのが静岡てんかん・神経医療センター。住所は静岡市。写真を見てみると、ん? この風景。うちの実家の近所の田んぼじゃない? びっくりしました。そこは全国的に有名なてんかんの専門病院だったんです。
それで息子を連れて日本に戻りました。最初はセカンドオピニオンのつもりでしたが、結局、なかなか発作がおさまらず、静岡の病院に6か月入院しました。
その時は持っていたクラスの添削を寝ないでなんとか終わらせてから帰国したのですが、6か月後にシンガポールの自宅に戻ってみたら、机がそのままになっていました。コーヒーカップにはカピカピになったコーヒーが(夫はいたはずですが)。
その頃、シンガポール国立大学が生涯教育センターを作ることになっていて、私が日本語プログラムの立ち上げの責任者だったのですが、私は教えられないので、他の方に教えに行ってもらって、評価をしたり、アドバイスをしたり、成績を承認したりということを入院中にやっていました。
ビジネス日本語の論文も1本書きました。病院は夜9時に消灯で、次の朝の7時まで電気をつけてはいけません。朝5時ごろ、そうっとダイニングに行って、カーテンをちょっと開けると朝日が差してくるんです。その朝日で論文を書き上げました。完成した時はちょっと感動しました。これから研究もしたいと思ってシンガポール国立大学に移ったんだけど、息子の病気は一生付き合っていかないといけないもの。私の常勤としてのキャリアは終わったんだなと感じました。
シンガポールに戻ってからは自宅介護でした。また治療やリハビリで日本とシンガポールを行き来していました。夫はシンガポールの国際機関で働いていましたが、すぐに日本に来ちゃうんです。それで飛行機代も大変なことになっていたので、じゃあ日本で仕事を探したら? ということで2019年に家族で本帰国しました。
まささんとの出会い
――日本へ戻られてからは?
まず、そんな状態で日本に帰ってきていたので、専業主婦でした。子どもの4月からの行き先はもうどこもいっぱいの状態で入れるところがありませんでした。そうこうしているうちにコロナがやってきて、ますますどこへも行けなくなってしまった。でもコロナになった時に、シンガポール日本語教師の会の会長が、「理事会もセミナーもほとんどオンラインになったんだけど」と連絡をくれたんです。「ということは日本にいても理事出来るよね」って言ったんですよ。そんなわけで、辞めてきたはずのシンガポール日本語教師の会の理事会に返り咲きました。日本語教師の会は慢性人手不足のこともあり、帰ってきてくれるなら鬼に金棒だとか乗せられちゃって。
まささん(ニュージーランド・カンタベリー大学の荻野雅由さん)とは、その頃、盛んにzoomで繋がりましょうというムーブメントがあったと思うのですが、その一つで出会いました。オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールの三つの国の大学の日本語教育関係者が集う「上級日本語ネットワーク」です。一人5分か10分の話題提供でまささんがWell-beingについて話したんです。「日本語を学ぶつながりの中に幸せを埋め込みたい」ってまささんが言った。その時、私は雷に打たれたように「これだ!」と思いました。私が今まで胸に秘めてきた願いはこれなんだ! 父の死後(※1)、日本語の教室はなにかできなかったんだろうか、という思いをずっと抱えてきたからです。
まささんの言っていたwell-beingの中に答えがあるとピンときました。そこからまささんを追いかけてブレイクアウトルームへ。ここから、まささんとwell-beingが私の推しになっていきます。後日、二人で話したときに、父の悲しい死を打ち明けました。父の話を伝えるのはとてもつらく難しい。初対面の人にはなおさらです。でも、まささんには伝えたのです。それは、父の死後、私がずっと抱えてきた「日本語の教室はなにかできなかったんだろうか」という命題にまささんが言うwell-beingが答えをくれる気がしたから。それに、まささんは幸せについて話しているのに、悲しみが伝わってくるから。奥様を亡くされてグリーフを抱えていらっしゃるということが分かり、well-beingからグリーフに話が広がっていきました。まささんとの出会いがきっかけとなり、池田小殺傷事件でお子さんを亡くされた本郷由美子さんとご縁がつながり、紙芝居「じいちゃんはどうしてしんじゃったの」※2が誕生します。
「響き愛」からのつながり
――現在は武蔵野大学で教えていらっしゃいますが、それはどこから?
これもまささんがご縁元です。まささんは「響き愛」というLiveイベントをやっているのですが、息子のことがあって何もできなくてという話をしたら、じゃあ運営をやってみない? って誘ってくださったんです。学会やイベント運営はシンガポールで山ほどやってきましたから、勝手がわかる。常任運営みたいになりました。
嶋田和子先生との出会いもこのイベントです。父が「大学じゃなくて、日本語学校でこそ頑張っている人が二人いる。東の嶋田和子、西の奥田純子だ」とよく言っていたんです。奥田純子先生とはビジネス日本語研究で協働の機会がたくさんあったのに、そのことを言えずじまいのままお別れの時が来てしまった。ちゃんと言っておけばよかったと思った時に嶋田先生にお会いしました。だから今度こそと思って「石原えつこです」とご挨拶し、「石原康彦の…」と言ったら、嶋田先生はすぐに分かって、「あの石原先生の娘さん」と号泣して抱きしめてくださいました。
同じ日に武蔵野大学の神吉宇一さんにも再会しました。神吉さんとまささんもつながっていて。私は神吉さんとはシンガポール時代にビジネス日本語の国際大会を共催したご縁があり、神吉さんから「あれ? なんでここにいるの?」と聞かれ、実は……と状況をお話ししました。
しばらくしたら神吉さんからメッセージが来ました。「ねえ木曜日、空いてる? 教えられる?」
ちょうど息子も小学校に上がり、午前中ならなんとかなりますと答えました。
それで武蔵野大学で教えることが決まりました。
まささんとの出会いでwell-beingを知り、これこそ私が目指す教育の姿だと思っていたところで、武蔵野大学に入りました。大学に入った数か月後に、なんと世界で初のWell-being学部が武蔵野大学にできたんです。うそでしょ、と。これが引き寄せってやつかと驚きました。
今、ここで働けることが本当に幸せです。偏差値とかそういうものじゃなく、幸せであることを追求している大学。幸せになるための学問。隅から隅までそういう空気が満ち溢れています。
写真は象徴だから!
――2024年8月にはアメリカの学会にもいらっしゃったんですよね。
はい、まささんと「響き愛」の運営を一緒にやっている小川靖子さんと3人で日本語教育国際研究大会(ICJLE)でWell-beingダイアローグカードを使って教師の幸せをはぐくむというワークショップをやってきました。それと同時にシンガポール日本語教師の会の会長代理で代表者会議に出てきてって言われたんです。「日本語教育グローバル・ネットワーク」は、世界各国・地域の日本語教育関係の学会・教師会のネットワークで、現在12団体が加盟しています。この加盟国が持ち回りでホストをし、ICJLEの運営をやっています。
この12団体の代表者は大会中毎日、毎晩非常にレベルの高い会議をやっているんです。世界の日本語教育をどうすればいいか考えているんですよ。他の人の発表も見られないほど時間をかけて。それなのに、そういうことをやっているのを誰も知らない。自分も代理で出席するまで知りませんでした。よく、APECなどのサミットで首脳が集まって写真を撮りますよね。国際会議って、あの1日で行われているわけではなく、1年中担当者レベル、大臣レベルなどで会議が行われているんです。そして、最終日に国際的な対話の象徴として、首脳レベルが写真を撮るんです。ICJLEはまさにサミットだ、だから、私たちも写真を撮りましょう! と。ちょっと熱くなっちゃって壇上に上がって写真を撮らせてくれと頼みました。世界の日本教育関係者が集まっている連携の象徴であると。それがこの写真です。
伝えたいこと
――今、武蔵野大学の他になさっていることは? とても、お忙しそうですが。
ええ、障害児のためのコミュニティを作ったり、肢体不自由児父母の会の役員もやっています。教室作りと同じなんですよ。それからグリーフの活動も。紙芝居として作った『じいちゃんはどうしてしんじゃったの?』※2が絵本になりました。グリーフの会に呼ばれて、その読み聞かせをしたりしています。絵本ができるまでに18年かかりました。
また、今年、わが子同様に育ててきた同じ疾患を持つ息子の幼馴染が亡くなりました。私の父に対するグリーフは、絵本というひこばえが生まれたことで、悲しみがあっても違った形で芽が出てきて、生きていけると思ったところでした。
でも、引き裂かれそうなグリーフを抱えるママ友であり親友を目の前に、悲しみの日々がまた始まりました。あの頃に逆戻りしています。また、自分にグリーフが与えられた。グリーフを感じ、グリーフと日本語教育を考え続ける。これが私に与えられたメッセージなのかもしれません。
――これから日本語教育を目指す方に何か一言お願いいたします。
実は父が亡くなる前の日に、電話で話しているんです。その時父は「これから日本はどんどん人口が減少して移民の問題が本格化するだろう。日本語教育関係者だけでなく、日本の人々が今までにないレベルでそのことについて話をする時代になる。その中で日本語教育というのは、いまだかつてないぐらい大事な役割を持ってくるよ」と話しました。
私は父の葬儀で、この父の言葉を遺族代表の挨拶の中で触れました。
「日本は外国から人に来てもらって、一緒に日本を支えてもらうことで希望を見るんです。私たちの仕事は日本の未来に希望を作る仕事です。」これが私をここまで支えてきてくれた言葉です。
この言葉をこれから日本語教師になりたい方に向けても伝えたいと思います。
※1 静岡日本語教育センターの石原康彦先生は、2005年6月元講師によりセンター内で刺され、死去しました。精神疾患に伴う妄想が原因の犯行のため、無罪判決が下されました。
※2 『じいちゃんはどうしてしんじゃったの?』https://okinahashi.base.shop/
取材を終えて
石原さんとはセミナーでお会いしてから、たまたまヘラルボニーのファンだったり、インド料理が好きだったりと共通点があって交流をしていました。今回のインタビューで私が石原さんについて、ふとイメージしたのは太陽です。厚い雲に覆われても再び陽が差してくる、夜に沈んで闇が訪れても、また朝には昇り、私たちを照らしてくれます。
取材・執筆:仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。7年前よりフリーランス教師として活動。
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