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日本語教師プロファイル吉田知恵さん―日本語教育に演劇や歌を取り入れた活動を続けていきたい
今回の「日本語教師プロファイル」ではJICAでの活動を終え、派遣先のインドから帰られたばかりの吉田知恵さんにお話を伺いました。吉田さんは元々演劇を学び、役者として活動、ミュージックスクールのインストラクターも務めていたという異色の経歴をお持ちの日本語教師です。サモア、インドネシア、ラオス、モロッコ、エジプト、そして今回のインドと各地に滞在した経験を活き活きと語ってくださいました。

 

子どもの頃から演劇に魅せられて 

――まず、日本語教師になる以前のことについて教えて頂けますか。演劇をなさっていたと伺いましたが。 

そうですね。日本語教師になってからの行動原理が、それ以前のことに関係しているのでそこをお話しないことにはと思っていました。 

幼稚園の時、クリスマス劇のマリア様を演じて以来、お芝居と歌が大好きになりました。中学生の時に初めて宝塚歌劇を見て、日常とはかけ離れた世界にすっかり魅了されてしまったんです。それで幼少時から習っていたピアノに加え、中学ではコーラス部に入り、声楽のレッスンも始めて。文化祭でミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」をやることになり、初めて台本も書きました。 

高校でも、ほぼ文化祭や学芸会のために全精力を注ぎ込んでおりまして(笑)、オリジナル台本による仮面劇を上演したりしていました。その傍らお稽古事としてジャズダンスやバレエも習い……、そんな風でしたので進学も親には反対されつつも、どうしても演劇を! と桐朋学園の演劇科に進みました。卒業後、かねてからの夢だったミュージカルがやりたくて、野沢那智さんが主宰されていた劇団薔薇座に入団。新人でしたがピアノが弾けるということで、役者の傍ら稽古場のピアニストに任命され、主演の方たちの譜面の音取りをお手伝いしたり、本番の舞台でもピアノを弾いたり、まさに現場で鍛えられました。 

その後、音楽座という別の劇団に移籍したのですが、どちらの劇団でも分裂期を経て、25歳になった時、アルバイトとかけもちの生活ではなく今までやっていたことを少しでも仕事に結び付けられないかと思い、ミュージックスクールでボーカルを教えるようになりました。 

ミュージックスクールの仕事は夕方からなので、昼間は別の仕事も始めました。ちょっと特殊ですが星占いのライターです。星占いの研究所に所属して一から教わり、大手の某ファッション誌にも書いていました。そこで、選び抜いた言葉で物語を紡ぐことの大切さや、言葉の持つパワーをたっぷりと学びました。 

旅に憧れて 

その頃の私は、自称・職業=旅人をキャッチフレーズに暇を見つけては旅をしていました。 

初めての海外は、短大時代に演劇を学んでいる中国の青年たちと交流する旅でした。全中国から選ばれたエリートの青年たちが朝6時から発声練習している光景を目の当たりにし、こんな世界もあるんだと衝撃を受けました。その後、大学主催のイギリス、フランス、イタリアの演劇にゆかりのある地を巡るツアーにも参加し、海外の面白さに開眼しました。 

インドに初めて行ったのは25歳の時。トルコやモロッコにも出かけ、各地の民族楽器を蒐集したり、吉祥寺にあった民族音楽教室に通って、インドやアラブの民族楽器に親しみながら、ライブハウスに出演したり、あげくに仲間と『天竺浪漫』という民族楽器をフューチャーしたバンドを結成して活動もしていました。その頃から海外志向が募り、民族楽器を本格的に学びたい、さらにはいつかインドに移り住みたいという野望も芽生えました。 

それまで私が世の中で一番面白いものだと信じてきたのは、演劇でした。舞台の上で起こる虚構の世界に惹き込まれ、そういうものをずっと求めていました。でも旅をしているうちに、世の中には演劇よりも面白いもの、摩訶不思議なものがある。同じ時代、同じ世界に住んでいながら、日本では絶対に想像すらできないような生活をしている人がたくさんいることに気づいたんです。そんな生の営みを、知らずに人生終わるのはもったいない!それまで演劇一筋だったのが、世界をもっともっと知りたいと思うようになりました。 

日本語教師を目指すきっかけは 

それには今までのような旅ではなく、もっとディープに現地に根差すような形で世界に出る方法はないかと探すうち、JICAの青年海外協力隊で、「音楽」という職種を見つけたんです。それがきっかけで1993年に、サモアに音楽教師として赴任しました。はじめての海外生活、サモアはブッシュナイフを持った若者が裸足で闊歩し、家族揃っての食前のお祈りでは大コーラスがはじまる魅惑の島でした。

サモアからの帰任時、以前から気になっていたインドネシアに立ち寄りました。そこで、すごくきれいな日本語で話しかけられたんです。それまで観光地などで出会った商売人とは明らかに違う日本語でした。ああ、こういう人たちのために日本語を教えられたら素敵だなと感じました。音楽を教えるのも、すばらしい体験だったのですが、海外ではチャンスは多くありません。その点、日本語教師なら海外でこそ活躍できそうだと閃いて、帰国して420時間の養成講座に通い、日本語教育能力検定試験をめざすことにしました。 

――ようやく日本語教師の道のスタート地点に? 

ええ、ミュージックスクールとライターの仕事に復職し、働きながら養成講座に通いました。 

晴れて検定試験に合格し日本語教師の資格はとれましたが、その当時は未経験で教えられるところはありませんでした。応募条件の「経験1年以上」をクリアするにはどうすれば……。インターンとして海外に教えにいこうかとも考えました。

その一方で、インドネシアで触れた民族楽器・ガムランの音色が忘れられず、深川にあるガムランクラブに参加していたのですが、もっと勉強したいと思い、結局インドネシアのバンドンに留学することにしました。 

――また、少し日本語教育とは離れるわけですね。(笑い) 

インドネシアで日本語を教え始める 

 

 

西ジャワのガムランを学ぶために留学したバンドンは大学の多い場所でした。日本語科がある大学もあり、初めの1年はガムラン三昧でしたが、2年目に国立大学の文学部から資格があるならぜひと誘われ、日本語を教えることになりました。ここで学生たちと放課後に演劇を稽古し、初めて日本語劇を上演しました。その後、別の私立大学からもお声がかかりました。そこは文学という科目名で毎年演劇を上演している珍しい大学で、演劇の演出を任されたんです。願ってもない展開だったのですが、数年後にビザの問題でインドネシアに滞在し続けることが難しくなってしまいました。 

そこでJICAの協力隊に再チャレンジし、再び音楽教師として今度はラオスへ。赴任先の芸術教員養成学校では、音楽科・美術科の学生と力を合わせてここでも『天守物語』を音楽劇として上演しました。ラオスでの任期が終わったら、またインドネシアに戻りたいと思っていたのですが、短大卒の学歴では大学で教えるには不十分だったので、学士を取得しなければと思い通信制の大学で芸術学を学びました。 

その後、シニアボランティアに応募し、2008年モロッコに派遣されました。JICAで日本語教師として派遣されたのはこれが初めてですね。 

大学院で演劇のポップカルチャー化について研究 

――その後は日本語教師として? 

はい、モロッコの後はエジプトに行きました。エジプトには国際交流基金の事務所もあって、アレキサンドリアのコースの主任を募集していたので、それに応募しました。エジプトには3年半いたのですが、その間に「アラブの春」が起こり、エジプトでは革命・しばらくするとクーデターで退避を繰り返していました。モロッコでもエジプトでも、学生たちと日本語を用いたプチ音楽劇を沢山上演していたのですが、そのような情勢でイベントも自粛傾向のご時世になってしまいました。 

その間も心の中にはずっとインドネシアがあったのですが、インドネシアの大学では高学歴化がすすみ、教えるためには少なくとも修士を取っていなければならないと要件が格上げされました。それで大学院へ行こうと思ったんです。 

――日本に帰国し、大学院に進学されるわけですね。 

はい、法政大学大学院で「国際日本学」という日本のことならどんな角度から研究してもいいというインスティテュートを選び、日本文学研究科に所属して、日本の演劇のポップカルチャー化について研究しました。というのはエジプトやモロッコなど、日本から遠く離れた地域で出会った学生たちは、学習動機がキャリア志向ではなく、純粋に日本のことに興味を持っていました。特に漫画、アニメは凄く詳しくて、こちらは教わる立場。映画も漫画、アニメの実写化などである程度知られています。でも日本の演劇についてはほぼ知識ゼロでした。劇場に行かなければ体験できない、ある意味閉ざされた芸術である演劇を、世界に伝えるのは難しいなと感じていまして。ただ、今は演劇を十何台ものカメラで撮影して編集した「ゲキ×シネ」というのもあります。宝塚の華やかな舞台も日本独自の演劇様式です。それが海外で知られていないのは残念すぎる。そういうものを自分は発信できる立場にいるのだから、もっと専門的な説明能力を身につけよう。そう思って2年間かけて大学院で修士を取りました。 

インドへ! しかしコロナパンデミックが 

――大学院修了後はまたインドネシアへ? 

ええ、またインドネシアに行く方法を探していたら国際交流基金の日本語パートナーズの募集を見つけました。こちらは中学高校での活動で、今までは大学でしか教えていなかったので、中学高校でどのように日本語を教えているのか知るチャンス! と応募して、ボゴールに派遣されました。日本語パートナーズ終了後、以前のバンドンの大学に戻ることができたのですが、2年目で大学側の状況が変わり、外国人教師は減らす方向となって契約を打ち切られてしまいました。 

再び日本に戻り、これからどうしようと思っていたら、また協力隊の募集が出ていて、その中になんと“インド”というのがありました。あぁ、そういえば私、昔からインドに行きたかったんだ! と20代の頃の記憶がよみがえって。インドネシアも好きだけれど、インドも一生のうちに一度は住んでおきたいと思っていたんです。それで応募し、インドの大学赴任が決まりました。派遣のための訓練が始まったのが2020年の1月。そうしたら、コロナパンデミックが始まってしまったんです。訓練は3月に終了しましたが、全訓練生が行かれなくなりしばらく待機。そのうち派遣されていた協力隊員も呼び戻され、結局2年4か月待つことになりました。 

その頃、コロナ禍に日本でパフォーミングアーツの火を消すな! みたいな活動がありましたよね。演劇や音楽の人たちが何とか自分の活動の場所を探そうとする。そんな勢いに乗っかって、実は私も上野野外音楽堂のライブに出たり、オーディションを受けて役者として舞台に立ったりしていました。 コロナで足踏みしている間に、原点回帰をめざしました(笑)。

そして2022年に、ようやくインドに旅立ったんです。 

「日本語クラブ」を立ち上げて 

 

 

――インドでの活動を教えてください 

インドで赴任したのはバラナシにあるバナラス・ヒンドゥー大学(BHU)でした。協力隊の派遣は初めてのところで、現地に行ってみると初めに要請されていたことと状況が一変していて。担当する予定の講座はすでに終了しているという、想定外のことに直面しました。課外授業を独自にやってくださいと言われたので、とにかく教室で日本語を使うこと、日本文化を紹介すること、さらに日本語でプレゼンテーションできるようにすることを目標にしました。 

大きな大学で試行錯誤するうち、日本語専攻以外の日本文化が大好きな人たちが集まってきて、是非日本語を学びたいと。教えることはできるけど、修了証は出ませんと言っても、それでもやりたいというので、彼らと一緒に「日本語クラブ」を作りました。90分のクラスを週2回、アクティビティのクラスを週1回、テキストは『いろどり』(国際交流基金日本語国際センター)を使いました。「日本語クラブ」というコンスタントに集まれる場ができたことで、主専攻の学生も顔を出してくれるようになり、歌のディクテーションから意味を学んで歌ったり、詩の朗読、日本人を招いての交流会などもやりました。 

また、バラナシでもほかの国同様、日本の演劇があまりにも知られていないので、セメスターの節目節目で、劇団☆新感線とコクーン歌舞伎と宝塚を見せました。私の完全な趣味です(笑)。劇団☆新感線は歌あり、踊りあり、アクションありで、インド映画に通じるところがあると思っていましたが、予想通りみんなノリノリで大好きになってくれました。 

この日本語クラブの仲間と、JICA「協力隊まつり」でNPO海外日本語ネットが募集していたビデオクリップ上映会に2年連続で参加しました。初年度はバラナシの名所を学生たちが紹介。2年目は趣向を変えて、コメディ風のストーリー仕立てにしました。 

日本語教育に演劇、音楽を取り入れて 

――一貫して日本語での演劇活動をされていますが、日本語教育に演劇を取り入れる効果についてはどう感じていますか。 

たくさんあると思いますね。インドネシア時代はかなり本格的に演劇をやり、『古事記』『牡丹灯籠』『天守物語』などを上演しました。そこで、文章で読むだけでは分からないもの、例えば角髪(みずら)という髪型を自分で調べ、工夫しながら形をつくってみるとか。また着物を実際に着てみると、立ち居振る舞い、歩幅の制約なども実感できますし。 

 

毎日の稽古場で、台本やト書きに出てくる難しい言葉は、初めは誰にもわからない。それで優秀な学生には演出部に入ってもらって、実際にこれはどういうことをやっているのかということをみんなが理解できるようサポートをお願いしました。それによって彼らの実力もつきました。台本はすべて演出部の学生が翻訳しましたが、膨大なので一度に伝えるのは無理なこともあります。でも、その時の疑問が後で分かることもある。日本留学から帰ってきた学生に「あの時のあれが今になって分かりました」と言われたこともありました。

あと、演劇公演の準備はさまざまな仕事をみんなで分担してすすめてゆく必要があるので、そういう自律的なプロジェクトを経験することもすごく大事なんじゃないかと思います。 

それから、やはり大変なのは発音です。発音の練習は通常授業では人数も多いしやりにくいのですが、演劇の時は徹底的に取り組みます。日本語能力が高い人がアクセントをすんなりキャッチできるかというと、必ずしもそうではありません。

同じセリフを何度も繰り返すうち、本人だけでなく、「今のはどう?」「違うと思う」等、みんなで言い合って、発音に敏感な耳を育てることにとても役立ちました。 日本語能力とは関係なく、表現力が豊かだったり、綺麗な発音ができる人たちが、自分の隠れた能力に気づいて自己肯定につながります。主役になった人の中には日本語の点数は低かったんだけれども演劇で大喝采を受け、スーパーヒーローが誕生したこともありました。

バンドンではいくつかの大学が合同で文化祭をやるので、毎年すごい盛り上がりようでした。互いにライバル意識もあって。客席は常に満杯。演劇の上演は、日本語を知らないお客さんにも分かるように、毎回インドネシア語での狂言回しもつけました。 

演劇を通した活動はこれからもやっていきたい 

 

 

――これからやって行きたいことはありますか。 

紆余曲折しながらも演劇や歌を使った活動をずっと続けているので、今後もそういうことができる場所に身を置きたいなとは思っています。それがどこなのかが難しいところで、できれば海外の大学や高校と思っていましたが、最近は送り出し機関にも目を向けています。

日本文化を教えるというとゴミ出しや挨拶など、日本で生活する上でのルールを教えることが中心になりがちです。もちろん それも大事なのですが、 日本を味わい、好きになってもらうために、Jポップを取り入れたり、もう少し楽しめる要素も入れて教えられたらと。そういう小さな種が、これから送り出される実習生の心をぽっと照らしてくれたら素敵ですね。そんな場をつくっていけるよう、今後も夢を追いかけていくつもりです。 

――日本語教師を目指す人にアドバイスはありますか。 

是非一度は海外に行って欲しいなと思います。自分が海外に行ったことでいろいろな異文化を体験する。よその国で自分が生きていくことを体験すれば、後でその逆の立場であるよその国に来た外国人学習者のことも分かるようになると思います。 

取材を終えて 

想定外のハプニングが起きた時、くじけそうになりませんでしたか? という問いに、「少数でも習いたいという学生がいる限りは教えたいと思いました。それに、現地で教えることで何をしたいのか、何を伝えたいのかがはっきりしていれば、凹んでも立ち直れると思います。それからその国や土地に対する愛着や好奇心も大切ですね」と答えてくださいました。 

 

NPO海外日本語ネットのFacebookページ 

https://www.facebook.com/profile.php?id=61554459006947 

日本語パートナーズのサイト 

https://asiawa.jpf.go.jp/partners/voice/blog/2016-12-12/?fbclid=IwY2xjaw 

 

取材・執筆:仲山淳子 

流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。7年前よりフリーランス教師として活動。

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