雑誌の編集者から日本語教師へ
――日本語教師になったきっかけを教えてください。
大学卒業後、雑誌の編集の仕事をしていました。看護師さんの転職先を見つける月刊誌でしたが、内容は総合女性誌のようなものでした。仕事はとても面白かったのですが、編集をやりながら次の企画を立てたり取材したりして、とても忙しかった。これは年を取ったらもたないなと思って、言葉が好きというのがあったので、言葉を使った仕事が何かないかと探したのがきっかけです。
朝日カルチャーセンターの日本語教師養成講座を受講し、修了後に日本語学校の常勤として勤務を始めました。その頃は採用条件に420時間の講座受講や日本語教育能力検定試験合格というのもなかったので、いきなり常勤になれたんですよね。運が良かったと思います。1991年1月に働き始めたのですが、検定試験の合格は仕事を始めた後でした。当時は1月に試験で3月が合格発表でしたから。
その後、子どもが生まれたので非常勤になりました。実はその頃一人になってしまって、食べて行かなくちゃいけない、というか食べさせなければならない。普通の会社員に戻るのも子連れでは難しいと思い腹をくくって自分でやろうと。それで非常勤講師を続けながら、個人での活動も始めました。
ビラ配りから始めた日本語レッスン
――1990年代ですよね。具体的にはどんなことをなさったんですか。
大昔なので本当にアナログです。外国人が行くスーパーにビラを貼ったり、表参道の交差点で外国人にビラを渡したり。今なら考えられないけど、そうやって、学習者を見つけていました。
――すごいですね。
勇気がいるでしょ? でも方法がなかったんです。マーケティングも分からないし。一番最初のお客さんのことは今でも覚えています。すごく嬉しかったので。英会話学校の先生でした。ビラを見て電話をかけてきてくれたんです。
――その後、AZ Japanese Serviceを立ち上げるんですね。
これは名前があったほうが信用されると言われて、個人事業として立ち上げました。私が事業主にはなっていましたが、プライベートレッスンで相手のところに教えに行くスタイルだったので、私一人ではなく最初は3人の先生でやっていました。
この頃は主に外資系企業の社員や家族の方への福利厚生としての日本語レッスンでした。外資系の方はコミュニティを持っていて、気に入るとどんどん紹介してくれるので、おかげさまで順調に広がっていきました。リーマンショックまでは。レッスン料も個人でなく企業がお金を払うところが出てきて、レッスンをお願いする先生も増えてきたので、法人化したほうがいいだろうと思い、個人事業を有限会社にしました。
学生時代の勉強は無駄にはならない
――英語話者向けのテキスト『50 Keys to Opening the New World of Japanese』(AZ Japanese Service)を執筆されたのは?
外資系企業の社員に教える時に英語が使えると引きがあったんですよね。私は文学部の日本文学科卒なので特に英語に縁があったわけではないんですが、とりあえず「英語が使えます」という看板を掲げました。英語が使える先生に登録してもらって、レッスンを提供していました。
私自身も「英語が使えます」という看板を掲げてしまったので、やるしかないという感じで、トライ&エラーを繰り返しながら蓄積していったものをまとめたのがこのテキストです。
――その後、「全研本社株式会社(現Zenken株式会社)に英語講師として登録」とご経歴にあるのですが、これはどういったことで?
ちょうど13年前です。東日本大震災が起きて、お客さんがいなくなっちゃったんです。同じように外国人ビジネスパーソンに教えていた小山暁子さんとこれからどうする?なんて長電話をしたのを覚えています。
私の場合、幸いにも英語を使って教えるということをやっていたので、それこそ新聞の3行広告で英語講師募集を見て、応募するだけしてみようと思ったら通ったんです。そこで登録させてもらって、企業や大学の英語研修、英語クラスを担当していました。
実は、専攻が日本文学で英語の資格というのがないからTOEICだけは受けまくっていて、それでTOEICを解くスキルはあったんです。おかげで大学ではTOEICクラスを担当することができました。(TOEIC935取得)
それから国語教師の免許も持っていたので、その当時、食べるために短期間ですが講師として私立高校に古典を教えに行ったりもしました。
――学生時代に頑張っていたことは、無駄にはならないんですね。
本当にそう思います。
日本語学校の校長に
――その後、どういう経緯でリンゲージ日本語学校の校長になったのでしょうか。
Zenkenに英語講師として登録していたのですが、そこに日本語研修の仕事が来た時、倉持さんって日本語も教えられるの?と聞かれ、いやいや、そっちが本職ですと。それで日本語の仕事を回してもらえるようになりました。それからAZ Japanese Serviceのほうも少しずつお客さんが戻ってきていました。
そんな時、Zenkenが、「日本語学校を作りたいんだけど、立ち上げをやらない?」って声をかけてくださって。でも、「自分の会社があるので、無理です」と言ったら、「じゃあ、会社ごと、人ごと全部いらっしゃい」って言ってくださったんです。つまり会社を買われたわけです。
それで日本語教育事業の統括責任者になりました。AZ Japanese Serviceがやっていた企業向けの日本語研修の部分も継続し、新たに留学生のためのリンゲージ日本語学校も作りました。
当時私は留学生の業界は全然分からなくて夢のようなことを言ってしまったのですが、それがすべて通って、大卒のみ、定員80名の多国籍の学生が集まる日本語学校がスタートしました。
就職を目指す学生が多いので、ビジネスコミュニケーションを重視して、初級の後半から入れていますし、履歴書を書いたり自己PRをしたり、就活もカリキュラムに入っています。カリキュラムは他の日本語学校とはかなり違うんじゃないかと思います。
立ち上げた時は教務主任兼校長でしたが、AZ Japanese Serviceの時から一緒にやっていた二人の先生が右腕、左腕になって、それぞれ企業研修と学校を回してくれるようになったので、私は学生の獲得のために各地を回って宣伝活動をするのが主な仕事になっていきました。自分の会社を持っていたので営業の基本は分かりましたし、サポートしてくれる事務長もしっかり者なので、安心して外に出ていけました。
日本に来る学生と同じ経験をしてみたくて
――リンゲージ日本語学校を離れて、アルゼンチンに赴任するというのは思い切った決断だと思うのですが、どんな思いがあったのでしょうか。
まず一つは会社を定年になったことです。学校を立ち上げて教務主任をやって校長もやって、学生募集もやって、コロナの時は学生が3人になっちゃって大変でしたけど、それも過ぎた時に定年。一つの役目は終わったなと感じて、気持ちが軽くなったんです。ちょうど息子も結婚しましたし。
もう一つは、これまでずっと受け入れ側で、いろんな国からいろんな目的を持ったいろんな年齢の人を受け入れてきました。皆それなりに大変な思いをする。カルチャーショックや悩みを抱えながら、その中で日本語を勉強して成長していくんですけど、私は海外に長期間住んだことがなく、受け入れる側として見ているだけで、彼らの悩みや大変さを本当には分かってないだろうなという寂しさがありました。感覚を共有できない、本音を理解できていないという気持ちです。なので、今度は自分が外国に出て行って、そういう立場になってみたいと思ったんです。
上司には会社を辞めて、アルゼンチンに行きますと言ったのですが、籍だけは残していったら?と提案してくださったので、リンゲージ日本語学校に籍は残ったままこちらに来ました。校長先生は今、休みを取って海外に行っていますというのも面白いのではないかと。それでJICAからも一定のサポートがある現職参加という制度を利用して赴任しました。
スペイン語研修を頑張りました!
――派遣先に南米を選ばれたのはどうしてですか。
私が経験を活かして応募できるシニア海外協力隊の募集は三つだけで、そのうちの二つが南米の国でした。なぜか大学時代に一番勉強したのがスペイン語でしたが、卒業したら何も活かせませんでした。そういえばスペイン語を一生懸命勉強したなと思って。それでスペイン語圏の国を希望しました。
その後、長野県での65日間の研修を経て、2023年11月にブエノスアイレスに無事赴任しました。
――長野県での研修はいかがでしたか?
主にスペイン語と異文化理解、コーチングなどを学び、安全管理、健康管理などについても具体的な研修を受けました。語学研修はかなりシビアなものでしたね、毎週テストがあって。大学時代にやっていたとはいえ、40年も前のことなので忘れ去っていましたから。でも日本語という言語関連の任務で派遣されるので、なんだ、スペイン語も話せないのか? と思われたら信頼してもらえないと思い、私も一生懸命スペイン語を学んだんだから、あなたたちも頑張ってと言えるように、必死に頑張りました。
日本につながる人材を育てること
――アルゼンチンではどのような活動をなさるのでしょうか。
アルゼンチンでの活動の主な目的は、日本とつながるための次世代の人材の育成です。今は、日系の方たちが作った日本語学校のとりまとめ機関「在亜日本語教育連合会」の事務所に毎日行っています。一番大事なことは日系社会という視点を持たなければならないこと。それを維持していくために何かができる人材を育ててくださいということなんです。言葉、つまり日本語を媒介として、その人たちが自力で発信できるような力をつけてほしいと思っています。
具体的なことの一つに日本語教師養成講座があります。こちらは1月に始まりました。コロナでの休止を挟みますが、もう9回目になるそうです。他にはN1おしゃべり会、中級以降の日本語授業に関する勉強会、日本的催しへの参加などの活動もあります。
こちらの日本語学校というのは「日本人会」が母体となり、移民の子どもたちに文化や言語を継承するために各地で立ち上げたものなんです。
子どもたちはすでに4世ぐらいになっていますから、親の世代も、もう日本語を話さない人が多いのですが、親としてはルーツが日本にあるんだからできれば日本語を学んでほしいという思いがあるようです。こちらは3月から新年度で、今ちょうど授業が始まったので、少しずつ学校を見に行っています。現場を見ないと何ができるか分からないので。
アルゼンチンには国際交流基金(JF)はないのですが、ブラジル・サンパウロのJFにスペイン語圏担当の専門家がいらして、その方に指導を仰いでいます。JFカイロで作られた子ども向けのテキストがあるので、それをスペイン語で使えるようにできないかと模索中です。それも私がスペイン語版に変えるというのではなく、現地の先生たちがグループを作って、現地版に変えられないか、検討しあうということをやってもらっています。
――アルゼンチンの生活にはすぐに馴染みましたか。
私が主に関わるのは日系社会なので馴染むのは早かったです。それにJICAが活動面でも生活面でもサポートしてくれますので。
――これから日本語教師になりたい人へ一言お願いします。
日本語を教えること=留学生に教えると思っている人が多いかもしれませんが、そっちの畑じゃないところもあるし、視野を広く持ちましょうと言いたいです。いろいろな学習者がいて、目的が違うと教え方や教材もフィットするものが異なります。教授法やアプローチ、教科書についてもいろいろ学んでほしいですね。
――シニアで海外を目指す方に対しては
定年になって日本語教師を目指す方も多いですよね。海外に出るとまだまだ日本人というだけで価値がある場合もあるのですが、やはり一定の勉強はしないと自分が困ります。それから健康第一。体力は必要です(笑い)。
取材を終えて
倉持さんの日本語教師人生は、東日本大震災やコロナ禍もあって、山あり谷ありのはずなのですが、語り口はとても軽妙で、しなやかな逞しさを感じました。きっとアルゼンチンでも軽やかに任務をこなして戻ってこられることでしょう。2年後にまたアルゼンチンでのお話を伺いたいと今から楽しみにしています。
取材・執筆:仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。7年前よりフリーランス教師として活動。
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