登録日本語教師の制度が動き始めるなど、日本語教師をめぐる社会状況が大きく変わってきています。この過渡期において、あらためて「日本語を教えるとはどういうことか」という原点を考えることで、私たちは何をすべきかが見えてくるのではないでしょうか。細川英雄さんへのインタビューを通して、「ことばを教える」ことの本質を考えます。(深江新太郎/多文化共生プロジェクト)
なぜ「ことばを教える」ことを考えるのか
―― 前回の「CEFRの本質から『日本語教育の参照枠』への向き合い方を考える」が好評で、今回、その続編が実現する形となりました。今回は、「ことばを教えるとはどういうことか?」ということをテーマにお話を聞けたらと思います。まず、このテーマに対する意気込みをお話しいただけますか。
意気込みですか(笑)、わたし自身の意気込みというよりも、今、ことばの教育のあり方が大きく変わろうとしているのではないかという予感があります。CEFRの解釈もそうですが、コロナ禍を抜けて、世界中の移動が活発化し、日本での外国人労働者の数も増え、いよいよ日本語教師も登録制度に入る、そういう時期になりましたね。外国人に日本語を教えるというのも、今までとは違うフェーズに入ってきたなという実感がありますね。
―― だから、今、「ことばを教えるとはどういうことか?」ということをテーマに考える必要があるということですか。
はい、そうです。いわゆる外国人に日本語を教えるという分野も、これまでとは違った発想、というよりも、本来的な考え方に立ち戻って、その原点を考えてみるということをしないと、CEFRをはじめとした世界の動きに対応できなくなると考えるからです。
―― 世界の動きというのは、たとえば、何を意味するのでしょうか。それと、ことばを教えることはどのようにつながりますか。
CEFRとも関連しますが、これからは、いろいろな言語を持ち、さまざまな文化的な背景を持った人たちと共に、そして対等に暮らしていくことになります。そのためには、「こういうふうにすれば、ことばが覚えられて上手になるよ」という考え方では共生社会は成り立たないのではないでしょうか。
ことばを教えるとは何かということに関しては、まず学校教育の教科としての国語教育と英語教育の2つが、私たちの経験としてありますね。そして、外国人のための日本語教育があります。この3つに共通するのは、ことばを教えるということです。ただ、どうしても教え方というのが前面に出てきます。前回のCEFRの話でも、CEFRは教え方について論じているわけではないのですが、CEFRではどう教えるのか、という質問や意見がたくさん出てきました。このように、教えるとは本来的にどういうことかを考えないまま、どのように教えるのという方法だけにとらわれていると、これからの社会で外国人をはじめとする、さまざまな人たちと共に対等に生きていくことは難しくなると思います。
国語教育、英語教育と日本語教育の違い
―― 現在、国家資格としての登録日本語教師の話が進められるなか、日本語教師の専門性というものがあらためて問われている時期ですが、さきほどのお話の中にあった国語教育、つまり国語を教えるということと、日本語を教えることの違いはどんなところですか。
私自身、国語教師としてキャリアをスタートしたので、この点は大きな関心事でした。国語の場合は、日常的には日本語がほぼ不自由なく使える子どもたちを対象にした教育ですね。だから、クラスに日本語がわからない児童・生徒がいるという発想がありません。先生も、児童・生徒も、みんな自分の言っていることがわかるということに疑いがありません。ここが、日本語を教える場合との一番、大きな違いでしょう。もう一つの違いは、国語の先生は、日本語教育のように児童・生徒たちの文化的、社会的な背景がそれぞれ違う、ということをほとんど意識していません。国語の場合は、画一的な集団に対し、どのように優れた文章を読んでいくかが中心に進められます。一方で日本語教育はそうはいきません。日本語がわからない人たちにどう接していくかが問題になります。したがって、日本語教師になろうと思って養成講座に通う人たちが知りたいことはまさにこの点でしょう。
―― では、外国語教育としての英語教育と日本語教育の違いはどのようなところでしょうか。
多くの場合は、中学校に入って英語を勉強しはじめるのですが、基本的には訳読法です。外国語である英語の情報を日本語に置き換えてインプットするやり方です。現在ではかなり変わってきたと言われながら、まだ多くはその考え方が根強く残っています。このやり方は、英語に関する知識を日本語に翻訳する方法なので、正解を求める傾向が強くなります。例えば、単語の意味を覚えるというのが典型例です。多くの人がこの経験を経ています。
では、日本語教育の場合、これができるのかと言えば、できる場合もあるし、できない場合もありますね。従順な大人であれば、教科書の一方的な説明や、パターン・プラクティスと言われる繰り返し練習に耐えられるかもしれませんが、外国につながる子どもたちの場合は、それはほとんど通用しません。そういうことに耐えられない成人も多くいます。したがって日本語教師になろうとしている本人が受けてきた英語教育を日本語教育にあてはめていくことはできないでしょう。
日本語教育を考えるためのスタートライン
―― つまり、私たちが受けて来た国語教育と英語教育の考え方や方法を、そのまま日本語教育にあてはめていくことは難しいということですね。では、私たちはどこから考えたら、つまりどんなスタートラインに立ったら、日本語を教えるということを考えられるのでしょうか。
国語教育と英語教育の共通点は正解があることです。受験という制度があるため、それに合わせてつくられている側面が相当に強いです。正解は先生や教材の中にあります。先生は、極力、その正解をインプットしようとしています。言い換えれば、その情報を与えようとしています。そして、学ぶ側は、その情報を受け取ることがいわゆることばの学習だと思い込んできています。
しかし、本来、ことばとは何かを考えると、ただ情報を受け取るだけではないんですね。むしろ、ことばの活動は、入ってきた情報に対し自分がどう反応するか、つまりアウトプットです。例えば、「これ食べない?」と言われて、「いやあ、食べたくない」とか「もっと食べたい」とか、その人の感情からことばがどんどん出てくる、つまりアウトプットするということが重要なわけです。人はことばで活動しているのですから、その人が何を考えているか、何を感じているかをもっと出すことが、とても重要です。
―― 一人一人が自分の感じていること、考えていることを表現していくことがことばの活動を考える上で、スタートラインということですね。
はい、その通りです。そうすると、よく「ゼロからは始められない、だからインプットが必要」という意見も聞かれますね。もちろん、インプットが必要ないというわけではありません。大切なことは、アウトプットを前提としたインプットでないと、生きた活動にならないということなんです。
―― じゃあ、どうすればいいのかという方法の質問が出てきそうに思いますが(笑)
そうですね、とても簡単な例でいえば、たとえば、「これはリンゴです」といってリンゴを示す場合と、「これが好きですか」といってリンゴを見せる場合を比べてみてください。
「〇〇が好きですか」という問いは、相手に答えを要求します。要求にこたえるためには、アウトプットが必要ですから、何とかこたえようと考えます。たとえ「好き」の意味がわからなくても、何とか文脈から判断して、懸命に応えようとします。この感覚が貴重なんですね。こちらは、その答えが出てくるまでじっと待ってみる。
このことは、その人からことばが出てくる状況をつくる、場面をつくること、やや抽象的には、環境をつくることです。そのことが今、ことばの教育では一番重要なことだと思います。
―― なるほど。その人がことばを発していけるような環境をつくっていくことで、その人がことばを発する機会が多くなり、その結果として、ことばが使えるようになるという理解でよいでしょうか。
はい、そういうことです。これは、日本語という言語に限ったことではなく、どんな言語にも通じるものです。自分の言いたいことを表現できる環境が整備されていれば、ある意味ではだれでも、どこでも、自分のことばとして発信していけるようになります。いわば自然習得に近い考え方ですね。まずは、そのような場づくりをすることが不可欠です。
その人の本当に言いたいことは何かを問う
―― 文型を教えるとか語彙を教えるということが、日本語教師の役割であるという考え方は根強くあると思うのですが、それは言語活動の立場からすると、本来的な役割ではないということですね。
その通りです。まず語彙や文型があってそれを使いましょうという授業は、教師が語彙や文法を持っていて、それを小出しにしながら、使わせるという発想から生まれます。ところが、学びというのは、上から与えられたものを覚えたり吸収したりすることではなくて、人と人のやりとりの中で、自分の中に生まれた興味、関心を人に話したい、伝えたいと思う気持ちがあってはじめて成り立つものですね。教師が教えるべきものとして何かを持っていると、学び手の中に潜在的にある興味、関心の芽をつんでしまうことになりかねません。「あなたは、これとこれを覚えて、これを使いなさい」と教師が言えば、学習者は使うかもしれませんが、それは教師に覚えろ使えと言われて使っているにすぎません。学習者自身の中から出てきたものではありません。その人が本当は何を言いたいのかを、教師が考えていないからなのです。そのような場では、その人のアウトプットはとても少なくなり、その人の考えていることは他の人に伝わりません。
―― 日本語教師になろうとしている人たちは、どうやって日本語を教えたらいいのだろうか、という疑問を持っていると思うのですが、日本語を教えるとは日本語を教えることではないのですね。
そうですね(笑)。「ことばを教える」というタイトルとはちょうど逆のことになるのですが、ことばは教えられない、正確に言えば、ことばの知識は教えられても、ことばの活動は教えられない、と私は考えます。
むすび
今回の対談は、CEFRの話より広く、日本語教師になろうと思っている人たちに向けて行いませんか、という細川さんの発案によって生まれました。ことばを教えるということについて、専門的な用語を当てはめ理解していくのではなく、私たちが自身のそれぞれの経験にそくし、自然にそして論理的に考えればたどれる細川さんの話を、私は心地よくまとめています。次回以降、一人一人にそくしたことばの活動の設計について、より具体的に考えていきます。
プロフィール
細川 英雄(ほそかわ ひでお):1949年東京生。早稲田大学第一文学部卒、同大学院文学研究科博士課程単位取得。博士(教育学)。信州大学、金沢大学、早稲田大学日本語研究教育センターを経て、2001年から早稲田大学大学院日本語教育研究科教授。1983-84年フランスINALCO日本語講師、1995-96年パリ大学交換研究員。2013年3月早期退職、以後、八ヶ岳にて言語文化教育研究所を主宰。2013-2022年まで言語文化教育研究学会ALCE代表理事。主著に『日本語教育は何をめざすか』(明石書店2002)、『「ことばの市民」になる』(ココ出版2012)、『対話することばの市民』(ココ出版2022)など多数。
執筆
深江 新太郎(ふかえ しんたろう):「在住外国人が自分らしく生活できるような小さな支援を行う」をミッションとしたNPO多文化共生プロジェクト代表。ほかに福岡県と福岡市が取り組む「地域日本語教育の総合的な体制づくり推進事業」のアドバイザー、コーディネータ―。文化庁委嘱・地域日本語教育アドバイザーなど。著書に『生活者としての外国人向け 私らしく暮らすための日本語ワークブック』(アルク)がある。
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