今回ご紹介するのは株式会社メルカリのLanguage Education Team(LET)で日本語トレーナー&やさしい日本語トレーナーとして働く親松雅代さんです。外国籍社員が多いメルカリでチームのパフォーマンスを上げるためには、日本語話者、英語話者双方が歩み寄るコミュニケーション教育が重要だとの考えに共感しました。今後のヴィジョンについてのお話も興味深く、あっという間にインタビュー時間が過ぎてしまいました。
かつて一緒に学んだ学習者からの誘いでメルカリへ
――メルカリに入社されるまでの経歴を伺ってもいいでしょうか。
はい、もともとは外資系企業の会社員でした。ただ、この先のキャリアをどうしようか悩んでいた時期があって、まるで違う世界に行きたいなと思っていたとき、たまたま日本語教師って仕事があることを知ったんです。それで興味を持って420時間の養成講座で勉強を始めました。そうしたらめちゃくちゃ面白くて、これ、私好きだなと感じました。その年の日本語教育能力検定試験に合格、翌年420時間も修了したので、会社を辞めて日本語学校の非常勤講師になりました。
その日本語学校は進学目的の留学生が対象でした。2013年からは5年ほどEPAの看護師・介護士候補者向けの日本語研修にも携わりました。それと並行してビジネスパーソンのレッスンも担当しました。
――メルカリへの入社はどういったきっかけだったのでしょうか。
実は日本語学校で担当した学習者が誘ってくれたんです。その人は日本語学校を卒業した後、別のIT企業を経て、メルカリに入社していました。それで、今メルカリが日本語トレーナーを募集しているのでどうかと。そのポジションが私に合っていると思うと勧めてくれました。初めはレッスンの時間だけ派遣される講師かと思ったのですが、募集要項を見ると正社員でした。採用プロセスに入る前に会社の人と会って話をしたのですが、私がやりたいと思っていることと、この会社でできることが一致していると思いました。それで正式に応募して採用面接を受けてみることにしました。採用プロセスにおいてもメルカリのカルチャーやバリューと、わたしの日本語教育への考え方が合うなと感じることが多く、入社を決めました。
日本語教育、英語教育、やさしいコミュニケーション
――社内に専門の言語教育チーム(LET)があるということは、やはり外国籍社員が多いということでしょうか。
そうですね。部署によっても異なりますがエンジニアリングの組織の場合は約50%が日本語が母語でない社員です。このLETは言語教育を提供するチームですが、柱が3本あって、一つが英語を母語としない社員のための英語教育、そして日本語教育、もう一つがやさしいコミュニケーションのトレーニングです。私は現在、そのすべてに関わって、日本語、英語両方でプログラムマネジメントをやっています。
――メルカリに入社された時は、どのような仕事をなさっていたんですか。
2018年7月に入社したのですが、10月にインド工科大学から大勢の新卒新入社員を受け入れることが決まっていて、社内で日本語教育を提供するためにカリキュラム、テストの開発とレッスンの担当というのが最初のミッションでした。最初の数週間でスピーキングテストの開発をしました。レベル判定ができるように基準を作り、採点スキルをあげることが自分のタスクでした。現在ではそのテストは仕組み化が進んでいますが、当時はそうではなかったので、対面で録音して全部書き起こして採点し、クラス分けをするなど大変でした。
――現在ではレッスンは担当されていないのですね。
はい、現在は、社内で作ったオリジナルカリキュラムを業務提携している日本語トレーナーの方に担当していただいています。また当初は会議室に集まってレッスンをしていたのですが、現在は100%オンライン化されていまして、今後も対面に戻す予定はありません。私の今の仕事は諸々の仕組み化や効率化、テストのスコアリングなどです。またやさしいコミュニケーションの主な担当者として動いています。
最も効率的なトレーニングのために行動中心アプローチを採用
――日本語トレーニングについて具体的に教えて頂けますか。
まず、私たちが提供している日本語教育の目標は、日本での生活を快適にしてもらうこと、できるだけ自立して生活をしてもらうことです。口頭産出のレベルがCEFRのB1になるまではどの社員でも受けることができます。ポジションによっては採用時の言語要件に「日本語」を設けていないこともあるので、Pre-A1やA1の人も多いです。どのレベルからスタートしても多くの人が比較的短期間でB1に到達します。
――CEFRに基づいて「行動中心アプローチ」を採用していると伺いましたが。
はい。それには明確な理由があります。日本語のレッスンは1週間に1時間2回のみです。もし構造シラバスなどのメソッドを使うと、Pre-A1からB1になるまで、何年かかるか分かりません。ビジネスとしてはそんな時間は待っていられないわけで。また何年もかけてやっと初級が終わったという頃には、ビジネスの環境は大きく変わっています。いかに効率よく、学習者が必要なものを的確に手に入れられるか考えたら、行動中心アプローチが最適であるという仮説のもとでカリキュラムを作りました。LETができる前は、日本語学校にレッスンを委託していたのですが、そこでのコミュニカティブアプローチと、行動中心アプローチをもとにメルカリで作成したプログラムの結果を比較してみたところ、スピーキングテストの結果に明確な差が出たんです。それでメルカリの社員に求める理想的な日本語使用者の状態に持って行くのに最も効率がいいのは行動中心アプローチだと結論づけました。
――教材は何か市販のものを使っていますか。
いいえ、オリジナルです。これを作った時は、CEFRはもちろん、さまざまな教科書のシラバスを一覧にして、どうしようと頭を抱える日々が続きましたが、それに加えて直接社員に聞こう!と思って、社員に「最近日本語で困った出来事は何ですか」「これができるようになったら、日本で自信を持って生活できるということは何ですか」等とヒアリングしていきました。そうやって社員のニーズと会社のニーズを重ね合わせて作っていった感じです。
お互いが歩み寄ることが「やさしいコミュニケーション」
――「やさしいコミュニケーション」について教えてください。
入社してまもなく、社員向けに「やさしい日本語」の小さいセミナーを何回か行いました。そうしたら共感してくれる社員が多くて、ここではニーズがあると感じました。それから英語のほうが得意な社員と日本語のほうが得意な社員が働いていく時、当然ながら「やさしい英語」も必要だなと思ったんです。「やさしい英語」について調べ始めた時、ちょうどイギリスの教育機関で英語母語話者の使う英語について研究している方とメルカリが接点を持つことができました。その方のナレッジをメルカリで使用することを許可してもらい、メルカリの経験と合わせて、私たちが考える「やさしい英語」はこれですというのを作り、「やさしい日本語」と一緒にして「やさしいコミュニケーション」トレーニングにしました。
一緒にやっている理由としては、どちらかの話者だけを集めてトレーニングすることは有効ではないと考えたからです。お互いが集まって、困りごとを素直に共有することで、どういう歩み寄りができるか、トレーナーの私たちが教えるんじゃなくて、自分たちでディスカッションして解決策を考えてほしかったんです。
――確かに、日本語話者、英語話者双方が「やさしい日本語」「やさしい英語」を使うことで、言語理解のストレスが減りますね。
はい、やさしいコミュニケーションによって言語の壁を低くし、日本全体がみんなにとって働きやすい、生活しやすい「やさしい社会」となるようにしていきたいと考えています。また、メルカリでは「やさしい日本語」や「やさしい英語」を使うことを目的とはせず、あくまで言語のバックグランドが異なるメンバー同士をどう「インクルーシブ」にするか、つまり「誰のことも取り残すことなく」チームの議論や意思決定に全員が参加するためにはどうするべきかを考えることを重視しています。
自社で言語教育を行うのが、あるべき姿
――これからやっていきたいことについて教えていただけますか。
実はめちゃくちゃいっぱいあって、どうお伝えしようかなと思っていたんですが。
大きくは二つあります。
一つはメルカリの研究開発チーム(R4D)とコラボして既に取り組んでいることですが、カスタマーサポートをどう「やさしい」ものにしていくかです。お客様に対するコミュニケーションにおいて「丁寧さ」と「分かりやすさ」のトレードオフはどこのポイントなのか、そこを分析するリサーチです。単に「やさしい日本語」にすればいいというものでもなくて、これが興味深いところなんですけど。社内だけでなくメルカリを使ってくださっているお客様をどうインクルーシブにするかも大切なので。
――面白いですね。
もう一つは社内組織についてです。CEFRを導入して英語も日本語も同じ指標でレベルチェックできるようになったのですが、B2以上の言語使用者がチーム内で20%、30%、50%という分布になった時、そのチーム内のコミュニケーションがどういう状態で行われ、どんな課題があるのか。何をクリアするとチームのパフォーマンスがあがるのかについて調べたいです。それが分かればどこに言語教育を集中的に提供すべきかも分かりますし。言語教育は、個人のスキルアップ、つまり人材開発の面で語られることが多いですが、本来、組織開発の観点から考えていくべきものであるというのを強く思い始めました。
メルカリの行動指針のひとつにAll for Oneがあります。日本語で言うと「すべては成功のために」です。言語の観点で各社員がAll for Oneな行動ができるってどういうことだろうと考えています。単に自分が英語ができればいい、日本語ができればいいということではなく、組織としてどういうあり方が理想なのかに興味があります。
――もし、チームで一緒に働くことになったらどんな人が望ましいですか。
専門的知識を持っていることはもちろんなのですが、企業の課題に対して、いろいろな視点で物事を考えられる人ですかね。
例えば、企業側がこの人をN1にしてくださいと言ったら、はいと言って受けてしまう日本語教師は多いと思うのですが、企業側が持つN1のイメージにギャップがあることがある。そんなとき日本語教師側に本当の課題や目的はどこにあるのかと深掘り出来る力も必要だと思っています。
――メルカリのように自社で言語教育チームを持つ企業は他にありますか。また今後、増えていくでしょうか。
今のところ、自社でカリキュラムや教材開発までやっているところはあまり聞いたことがないのですが、でも広がっていくべきだと思っています。それぞれの現場でニーズは違うので画一的なカリキュラムでいいわけがありません。何が必要かを理解できるのは自社でしかないので、今後あるべき姿だと思っています。
取材を終えて
日本語を教える人の中でも親松さんのように企業に所属し、その企業のミッションやバリューに基づいてカリキュラムまで開発する人は少ないのではないかと思います。しかし今後、日本語を母語としない 社員が増えていくとき、そんな人材も必要になってくるのではないでしょうか。また、誰にとっても分かりやすいものを作ることに日本語教師が関われるのではないか、そんな思いを抱かせてくれたインタビューでした。
取材・執筆:仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。6年前よりフリーランス教師として活動。
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