今回インタビューさせていただいた佐藤剛裕さんは、かなり異色の経歴の持ち主です。かつては文化人類学を学び、インドやネパールにあるチベット仏教寺院で宗教的儀礼の研究をしたり、修行をしたりしていたとのこと。かと思うと、データベースやマーケティングの仕事の経験もあって、お話は多岐に渡りました。日本語教師となってからは特定技能関係の日本語教育に取り組み、2021年には個人事務所で日本語教育事業を始められたということで、その内容やこれからの展望などについてもお話を伺いました。
芸術、文化人類学から“ことば”へ
――日本語教師になるまでについて教えてください。
自分のバックグラウンドを語るには中学時代まで遡るんですが。通っていた学校がかなりの進学校で高校になると周りはみんな受験モードに。僕はそれについていけなくて、美術や音楽の先生にかわいがられていたこともあり、大学は芸術方面に進みたいと思っていました。第一志望の東京芸術大学の芸術学科には入れなかったのですが、中央大学の総合政策学部で文化人類学の勉強ができたので、ここで民族学をやりながら芸術の研究をやったら面白いんじゃないかと思いました。
大学で中沢新一先生に出会い、チベットの世界にものすごく魅かれまして、密教のヨーガ行者になろうと本気で思っていました。それでインドやネパールにあるチベット亡命政府の寺院で写経や読経、瞑想などを行っていたんです。予定の期間が来て帰国しましたが、やりとげたという実感はないままでした。
――帰国後はどうされたんですか。
大学院に通いながら、司法書士事務所で働いたり、大手IT企業の下請けをやっている広告制作プロダクションでマーケティングの仕事をしたりしていました。このころデータベースを覚えITの知識が付きましたし、プロダクションでは展示会やイベントのプロモーションもやっていたので、その分野のスキルも身に付きました。これらの事務所で7、8年働きました。しかし、勉強しきれていないという気持ちのまま働いていたものですから、もう1回勉強したいという気持ちが強くなって、ある日、旅立ってしまったんです。
その時は僕なりに考えて、トヨタ財団の助成金を取り、ネパールのトリブヴァン大学に研究員として所属させてもらい、ヒマラヤの奥地にある隠れ里で古い宗教的伝統の継承保存の共同研究プロジェクトを行っていました。そういうことをやりながらチベット語という言語を学んだことが後々役に立ってきたなと感じています。
日本語教育能力検定試験に合格
――日本語教師を目指したのはどうしてでしょうか。
フィールドワークでネパール人やインド人と接していると日本語を教えてくれと言われることがあって。その中には日本語を少し学んでいる人もいましたが、「あなたの教え方はウチの学校の先生よりうまい」なんて言われて、自分は教師に向いているのかなと思いました。
それから、お世話になっていたお寺の偉いお坊さんの姪御さんの家庭教師で日本語を教えたことがありました。その方はデリーの大学院で日本文学を専攻し、夏目漱石を研究していました。ちょうど夏休みだったので、じゃあ、いい機会だから村上春樹を読んでみない?ということで「風の歌を聴け」等を一緒に読みました。これが僕にとって濃密なランゲージエクスチェンジ体験でしたね。
日本語とチベット語と英語が入り乱れ、今でいう“複言語能力”が目覚める感覚です。日本語教師としての醍醐味に触れる体験ができた時間でした。この頃、僕も日本語教師になろうかなと考えたんですよね。ただ実際に教師になったのはかなり後のことですが。
――日本語教育能力検定試験を受けたのは2015年なのですね。
はい、チベットの研究は続けていましたが、チベットの人から教わったことは生計を立てるため商売に利用するようなことではないので、なるべく大切にしまっておくことにして。その後、設計事務所で働いたりしていました。それで日本語教師のことを思い出して、試験を受けてみたら運よく受かったんです。勉強は試験の前に参考書をパラパラっと見た程度でした。
――えっ?本当ですか。それは…日本語ジャーナル読者の方にはあまり参考にならないような…。
あ、でも文化人類学と言語学は隣接の学問なので。社会言語学や異文化交流なども学んでいましたし、チベット語を学ぶ際に外国語の学習法についてもかなり深く勉強したんです。そのおかげです。
政府の外国人政策とリンクする日本語教師人生
――日本語教師となってからはどのような活動を?
僕が日本語教師になったのは東日本大震災後で、中国や韓国からの留学生が減り、ベトナム、ネパールからの学生が急増した頃です。ネパールに長くいたのでネパール人との付き合いに慣れているだろうと採用してもらったようです。しかし検定試験には受かったけれどまったくトレーニングは受けていなかったので、模擬授業も初めてでした。その学校は伝統的な教授法を採用しているところで、実を言うと少し合わなかった。それで1年ほどでそこを離れ、社会人・生活者向けの日本語スクールで授業を持ちながら総務や情報システムの仕事をしました。
そのスクールがサブブランドの教室を作るということで、そこの教務主任を任されました。社会人や生活者向けに低価格のサバイバル日本語教室でした。できるだけコミュニカティブな内容でやろうと頑張りましたね。メインの学校に負けないようにと。しかしコロナ禍になって、コロナ対応のオンライン化まで実施したところで、そこを離れることになりました。
それからはフリーランスという形になり、日本語教育のオンライン化推進のベンチャーで営業やコンテンツアドバイスの業務委託を受けていました。その時、特定技能登録支援機関でのコース立ち上げをやったのが良かったですね。非母語話者の先生に「いろどり」を使った教授法をトレーニングして、学習者の母語でレッスンしてもらうコースです。モンゴル語とかカザフ語とか、かなりマイナーな言語でやりました。それを録画して配信するようなところまで。
2021年には建設業を得意とする特定技能の支援機関で正社員となりました。ここではかなりガッツリ特定技能の世界に浸かりましたね。仕事としては社内の業務フロー改善、ビザ申請管理、就労支援、日本語教育です。企業側の苦悩や辛い思いをしている就労者に会うと重圧がかかって働き過ぎてしまいました。朝7時半に出社して夜11時半まで働く生活を4カ月続けていたら倒れてしまったんです。
――それは働き過ぎです。
ええ、それで日本語教育の部分だけを個人事務所で業務委託として引き受けることにして会社は退社しました。
有限会社佐藤事務所日本語事業部を立ち上げる
――2021年11月に新しい会社を作られたのですか。
いえ、これは実家の物置に眠っていた(笑い)会社を定款や目的欄をカスタマイズして使い直したんです。現在、有限会社の新規設立はできません。ただ昔から周りの人に自分で会社をやったほうがいいんじゃないかと言われていて、自分のやりたいことをやるにはそれ相応の責任とかリスクとかを自分で引き受けなければならない年齢になっていると感じていました。同年代の日本語教師の方、例えばあひるせんせー等が会社を設立したのにも勇気をもらいました。
まあ、会社員が向いていないというか、イエスマンがちゃんとできないこともあるんですが…。
――これからやって行きたいことは?
大きな目標としては日本語教育に十分にアクセスできていない人に安価な手段で日本語教育を提供する方法を作ることですね。それを同時にビジネスとして成立させたい。
――安価で、かつビジネスとして成立させるというのは、なかなか難しいですよね。何かアイデアはあるのでしょうか。
はい、アイデアもあり、実現性も高いと思っていますが、そこから先は企業秘密です。
自分の事務所では、最初は赤字覚悟で性別と年齢に幅を持たせた5、6人のチームで業務委託を受けています。これまでの経験も活かして建設関係の日本語教育ではトップを目指します。そのための準備も着々と進めていて、会社にいた時も資格の勉強などを続けていました。
――倒れるほど仕事が忙しいのに、仕事以外の時間も勉強していたんですか⁉
何事も熱中するタイプなんです(笑い)
今のチームは海外派遣の経験者が半数を占めています。実はJICAやJF(国際交流基金)で海外に派遣されて活動していたけれど、戻ってきてから活躍の場がないという人が結構いて、そういう人たちが集まってくる受け皿になれたらいいなぁとも思っています。建設業だけでなく外食など他の分野でもチーム展開できるような準備も進めています。同じ志を持っている人が集まって、いわば就労系日本語教育ドリームチームを作りたい!と。
ビジネスがうまくいったら、難民関係など本当に日本語支援が必要な人たちには、なるべく無料で提供したいという思いもあります。
自分としてはギスギスしない経営がどうやったらできるかが、チャレンジです。教育の温かさの部分は失わずに経営を成立させていかなければなりません。決してネオリベラリズムの方にはいかず、ちゃんと人間を人間扱いする教育を目指します。
若い人はチャンスがあれば海外へ出てみて
――これから日本語教師になりたい人、経験の浅い方に向けて何かアドバイスをお願いします。
そうですね。自分の経験で言うと英語やチベット語を学んだことが日本語を教える上で役に立っています。第2言語、第3言語としての日本語を教えていくわけですから、自らも第2言語、第3言語を学ぶ経験は重要だと思いますよ。また自分が教える学習者の言葉など挨拶程度でもいいから話せるようになっておくことをお勧めします。簡単な会話ができる言葉はいくつあってもいいんです。頭の中が活性化されますから。
コロナ後は旧来の日本語教育法だけでは生き残っていけない時代になると思うので、教師自身勉強し続けることが大切です。現場のことだけでなくアカデミックの世界で何が行われているのかも意識しておく必要があると思います。日本語教育の現場は日本語学校だけでないことも意識してほしいです。
それから、今はコロナ禍で難しいですが、やっぱり若い人にはチャンスがあれば海外に出てほしいなぁ。それで帰ってきたら是非、一緒にやりましょう。
取材を終えて
佐藤さんは、熱意、ビジョン、アイデア等いろいろなものが「溢れている」方でした。きっとこれからの日本語教育を引っ張っていってくださることでしょう。プライベートレッスンで芸大の留学生に日本語を教えたこともあるそうで、日本語で現代美術の歴史を遡りながら、美大の先生にはなれなかったけれど、ちょっと夢が叶った気がしたそうです。夢というのはいろいろな叶い方をするのが人生って面白いなとおっしゃっていました。
取材・執筆:仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。5年前よりフリーランス教師として活動。
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