今回ご紹介する日本語教師は、東京都墨田区で「すみだ日本語教育支援の会」の講師として外国人介護職員への日本語支援を行っている中野玲子さんです。中野さんはその他にも大学での学習支援や、民間企業の外国人社員の就労後支援など、主に“エンパワメント”*1の立場で幅広く活躍されています。中野さんの目指す地域共生社会についてお話を伺いました。
すみだ日本語教育支援の会
インタビューの前に、コロナ禍のため現在はオンラインで行われている「すみだ日本語教育支援の会」の「プロ養成講座」を見学させていただきました。このクラスは外国人介護職の方の日常業務と介護の専門知識をつなぐ学習をするものだそうです。この日は、フィリピンの方7名と中国の方1名が参加し、介護福祉士国家試験対策を行っていました。問題文の解説は介護の専門家の方が行い、前もってピックアップしておいた語彙の確認や、分からない言葉についてのフォローを中野さんが行う形で進められました。その内容は国家試験というだけあって、かなり専門的です。
専門家「片麻痺がある方が階段を降りる時は、患側(かんそく)からですか。健側(けんそく)からですか?」
「かんそく」「けんそく」日本人の私も初めて聞く言葉です。しかし既に介護の現場で働いている受講者の皆さんは、意味が分かっている様子。必要に応じて、中野さんが日本語の意味を確認します。
中野「筋力低下はどんな意味ですか」
受講者「えーと、筋肉が弱くなる?」
中野「そうですね」
90分の授業ですが、皆さん熱心に画面に集中している様子です。ただ、時折、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたり、ご家族の方が画面の後ろを通り過ぎたり。ちょうど夕食の時間帯でしたので、ご家族も協力してくれているのでしょう。
授業後にお話を聞きました。
――皆さん、熱心で素晴らしいですね。
「そうなんです。でも、実は今日の授業の内容は昨年の国家試験の問題なので、全員答えも知っています。今日は正解以外の選択肢について理解してもらうための授業でした。外国人で介護福祉士国家試験に合格するのはなかなか難しく、何年もかかる人も多いです。しかし彼女たちにとっては介護福祉士になることは一つのステータスなので、家族の協力も得ながら頑張っています」
このクラス以外にも、N4、N3レベルの内容を勉強するクラスや、漢字を勉強するクラスがあります。クラスでは墨田区のボランティアの方がマンツーマンでついて勉強のサポートをするそうです。「彼女たちは本当に明るくて、真面目な勉強のクラスですが、いつもテーブルの上にはお菓子がいっぱい、笑いが絶えません。」
商社勤めから「介護の日本語」の道へ
――もともと「介護の日本語」を教えることを目指していたんですか。
いえ、そうではないんです。大学卒業後は商社に入ったのですが、個人的な事情で辞めることになって、世界のどこにいてもできる仕事を探そうと思いました。それで日本語教師に興味を持ちました。滞在していたフィリピンで国際交流基金の養成講座があったので、そこに通ってみました。ボランティアで教えたりした後、帰国してもっと専門的に学びたいと思い、早稲田大学の大学院に入りました。
2008年に早稲田大学の研究室が中心となって「すみだ日本語教育支援の会(以下、すみだ)」を立ち上げることになりました。墨田区の介護施設のフィリピン人職員が日本語が分からなくて苦労しているという新聞記事を見て、施設に働きかけたんです。それで私もそこで教えるようになりました。学習者がフィリピンの方たちだったので馴染みもありましたし、家も近かったので。ですから「介護の日本語」に携わるようになったのは、今思えば、たまたまです。
目指すのは関係者すべてWIN-WINの状況
――現在は「介護の日本語」の専門家として発表や執筆をされたり、「看護と介護の日本語教育研究会」の幹事もなさっていますよね。
ええ、今では「すみだ」がライフワークとなりました。「すみだ」のコンセプトは、産学官が連携して事業を行うということです。運営のメンバーには早稲田大学の日本語教育研究科とNPO法人、介護施設の運営団体、墨田区議、ボランティア団体などが名を連ねています。私は日本語の専門家として関わっていますから、区から手当てももらっています。
私たちが目指しているのはみんなが豊かに暮らすための「日本語教育」です。「みんな」というのは外国人も日本人もという意味です。地域共生社会を作るためには、日本語を学ぶ外国人だけが恩恵を受けるのではダメだと思うんです。この活動を通して高齢のボランティアの方々は地域社会へ役割を担って参加もできますし、介護施設は人材の確保もできます。地域社会は介護職不足という問題を解決できるのです。さらに日本語の支援を受けていた受講者たちは、恩返しをしたいとボランティアグループを作って地域の活動に参加するようになりました。このようにここに関わる全ての人がWIN-WINの状況を作っていくことが私たちの希望です。実は私たちはこれを「すみだモデル」と呼んでいて、他の地域にも広げていきたいと思っています。
かつて日本に定住している外国人の方と接した時、日本に何年も住んで、日本で子どもを産み、育てているのに、彼女たちがいつまでたっても外国人扱いされていることに悲しくなったんです。それを何とかしたい。彼女たちも同じ地域の人間なんだよということを一番言いたいです。
関心があるのは“エンパワメント”
――「すみだ」以外のお仕事についても教えてください。
はい、早稲田大学の日本語教育研究センターでも教えています。大学にいるといろいろな日本語教育に関する情報が入ってきますし、図書館が使えるのもありがたいです。その他には中央大学の学習支援施設でアカデミックライティング指導のスーパーバイザーと、民間企業でEPA*2や技能実習生、高度人材の方の就労後支援のコーディネーターをやっています。直接教えるのではなくプランニングやアセスメント等です。民間企業の仕事はオンラインで時間も夜だけなので収入のためにと思って始めたのですが、やっていくうちに面白くなって。また別の研究テーマが見つかりました。
私が関心があるのは、単に日本語を教えることではなく「エンパワメント」なのだと思います。これは外国人に対してだけでなく、日本人に対してもですね。
日本語教師が担える役割とは
中野さんたちは介護福祉士の国家試験においてEPA枠の受験者と定住者の受験者の間に試験時間の点で条件に違いがあることに対して、区別の是正を求めて陳情をし、現在は同じ条件が認められているそうです。外国人への支援者や当事者が「行動する」ことで、区や国までも動かすことができるというお話は大変印象に残りました。
中野さんのお話は、日本語教師が単に言葉を教えるのではなく、社会と関わって、新しい社会(共生社会)を作っていく役割の一端を担える存在なのだということを再認識させてくれました。これから日本語教師を目指す皆さんも、既に日本語を教えている方々にもぜひ気づいてほしい視点だと思います。
取材・執筆/仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。5年前よりフリーランス教師として活動。
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