今回ご紹介するのは松浦真理子さんです。国内で5校に勤務し、そのうち3校で主任教員を務めた後、現在はベトナム・ハノイにある人材紹介・教育サービスの株式会社ITMで教育部の部長を務めていらっしゃいます。松浦さんに、なぜベトナムに渡ったのか、現在のお仕事、そしてこれからのことについてお話を伺いました。
日本語業界の変遷と重なる日本語教師人生
――日本語教師になるまでの経歴を教えていただけますか。
大学を卒業した後は地元の銀行に勤めました。四大卒の女子は初めてという時代でした。秘書室に配属されたのですが、その当時は、結婚したら当然やめるだろうという雰囲気でした。それで退職しました。その後は旅行会社でアルバイトしたりしていましたが、35歳ぐらいまでに、何かずっとできる仕事を見つけたいという希望はありました。旅行が好きだったので旅行の仕事もいいなと思っていたのですが、たまたまイタリアに旅行した時、イタリア人の友だちに日本語についていろいろ聞かれたんです。でもうまく答えられませんでした。日本人なのに日本語のことを知らないことに気づいて、これを教えるのは面白い仕事だなと思いました。もともと大学の専攻は国文学だったのですが。
それで住んでいた区のボランティア養成講座に通い、日本語ボランティアとして活動を始めました。けれどもボランティア教室だと、生徒さんは来たり来なかったりで、せっかく授業の準備をしたのに無駄になることもありました。そうするとこちらの授業準備もちょっといい加減になってしまって…。お金をもらう仕事ならもっと責任を持ってやれるんじゃないかと思いました。それで本格的に日本語教師を目指そうと日本語教育能力検定試験を受けることにしました。
――養成講座などに通われたんですか。
いえ、独学です。あ、アルクの「NAFL日本語教師養成プログラム」は受けていましたが、出産時期と重なってしまって実は修了できていないんです。でもなんとか検定試験に合格し、非常勤講師として日本語学校で非常勤として教えることになりました。その後、しばらくして専任講師になりました。
私が入った時、その学校は学生数100人規模の学校だったのですが、ちょうどその頃、入国審査が簡略化されて中国からの留学生がどっと増えました。中国の学生の第二次日本留学ブームと言われる時期です。私のいた学校も定員枠を増やして、学生数が4倍になりました。するといろいろなところにひずみが出てきて、学校の方針についていけなくなり辞めました。
次に勤めたのは新規校で、学生数がゼロの状態からのスタートでした。当時は留学生といえば中国や韓国の学生でしたが、2004年のSARSの流行で中国、韓国の留学生募集が難しくなりました。それでベトナム、スリランカ、ネパールにも目が向けられるようになりました。今のようにベトナムの留学生はまだ多くない時代でしたが、新規校なので新しい国を開拓しなければ学生が集まりませんでした。
実はその学校で教えるようになって初めて、学生が「分からない」ということはどういうことなのかが分かりました。それまで私が教えていたのは中国や韓国の学生ばかりで、彼らは漢字を手掛かりにすればある程度、日本語が理解できます。だから学生の能力に頼っていたのだということに気づいたんです。でもベトナムやスリランカの学生にとっては、日本語は本当に分からないものなのだと。それで、もっと分からない人の気持ちになって教えないといけないと思いました。
ここでは主任教員として授業やカリキュラムを考える他に、学生募集にもかかわるようになりました。授業や教務内はうまくいっていたのですが、学校方針の変更や人事問題など納得できないことがあり、辞めることにしました。
その次に勤めたのは都内の専門学校でした。ここも学校としては過渡期でそれまで韓国の学生が中心でしたが、中国や台湾にも進出し始めていました。ここでも学生の募集に関わり、授業をしながも、在留資格申請もするようになりました。
偶然の再会から新規校の立ち上げへ
――その後が東京YMCAにほんご学院ですか。
はい。専門学校で教えて2年ぐらいたった時、日振協*1の教育研究大会で偶然、高校の後輩に再会したんです。そこでYMCAが新しい学校を作ることを聞きました。YMCAなら組織もしっかりしているだろうし、新規校の面白さは以前、経験しているのでやってみたいと思いました。
それで開校準備の段階から関わりました。事業仕分け*2による申請先の変更があったりして、日本語業界もいろいろバタバタした時期でした。用意した書類をすべて再提出しなければならなくなって、大変だったことを覚えています。
認可までに時間がかかったので、YMCAの特徴を生かして地域の外国人に教えたり、託児付き授業をしたりもしました。 ところが、YMCAでも留学生の募集に苦労したんです。ベトナムに注目が集まり始めていた時期だったので、ベトナムで募集をしようということになりました。
――それでベトナムへ?
はい、ささやかなつてを頼りに一人で行きました。私は英語も得意じゃないし、ベトナム語は全くできません。でも飛び込み営業のようなことをベトナムでやりました。ベトナムの日本語学校に電話をかけると大抵日本語ができる人に代わってくれるので。そこで「学校の説明に伺ってもいいですか」とお願いしました。また間違い電話をかけたことが縁につながったこともあります。偶然にもその人が日本人で、しかも留学生紹介をしている方だったんです。本当にラッキーでした。
そうしてベトナムでの関係先や留学生も増えていきました。
――YMCAで主任教員をされながら教材も作っていらっしゃいますよね。
はい、出版社の方のインタビューを受けた時、以前作った非漢字圏の学生用の漢字教材を見せたら、気に入ってくださって、じゃあ作りましょう!ということになりました。それが『にほんご漢字トレーニング』です。この方と意気投合して他にも『にほんご音読トレーニング』やJLPT対策問題集など何冊か作りました。『にほんご音読トレーニング』は学生に音読させる時、ちょうどいい内容と長さのものがなかったので、それならば自分たちで作ろうと思って作りました。
日本語学校を離れベトナムへ翔び立つ
――YMCAの主任教員を辞めてベトナムで働こうと思ったのはどうしてでしょうか。
ベトナムの留学生が来日した最初の頃は、なかなかアルバイトが見つからなくて苦労したんですね。ところが、2014年、2015年ごろになると大手飲食チェーンや人材派遣会社などが学生アルバイトを紹介してくださいと次々に学校に来るようになったんです。それで話を聞いているうちに「日本って今、ものすごく人材不足なんだ!」ということに気づき、そこに興味を持ちました。それで人材を送り出す方に関わってみたらどうなんだろうと思いました。日本語学校も楽しいんだけど、もう少し社会に関わることをしてみたいという気持ちでした。
YMCAは立ち上げから関わって、ある程度成し遂げた感もありましたし、それまで海外で教えたことがなかったので、海外で教えてみたいとも思いました。年齢的にも最後のチャンスかなと。
たまたまベトナムの大学を紹介してくださる方がいて、待遇もまあまあだったので、悩みましたが、行くことにしました。
その大学での仕事は問題があって半年ほどで辞めました。日本に帰ろうかどうしようか迷いましたが、一度日本を出てしまったのだからもう少しベトナムにいようという気持ちになり、今の株式会社ITMで働くことを決めました。実は2004年当時勤めていた日本語学校のベトナム人留学生と関係する会社なので、不思議な縁を感じます。
――現在のお仕事は
ITMの教育部の部長です。この会社は日本へ行く実習生や技術者等の教育を請け負う会社です。また大学と提携して日本語教育を行ったり、日系企業での日本語および日本ビジネスマナー研修も行っています。私が直接日本語を教えることはなく、ベトナム人の先生たちの指導をしたり研修計画を立てたり、マネジメントをするのが仕事です。ただコロナのせいで日本人教師が帰国してしまい、今ベトナムは日本語教師不足なので、この秋から週1コマだけ大学で教えることになりました。久しぶりの授業なのでちょっと楽しみです。
変化できる人になろう
――今後はどうしたいと思っていますか。
うーん、今迷っています。いつかは日本に帰りたいと思っているんですが、どのタイミングで帰ったらいいんだろうと。帰った後、仕事はあるだろうかとか。ただ、ぼんやり考えているのは、ベトナムから日本に行っている人たちのサポートができたらいいなと。またベトナム人を受け入れる側の方たちに対する研修もできるかなと思います。ベトナムの人たちはこういう人たちで、こういう考え方を持っているということを伝えることもできますし。
――これから日本語教師になる方へのアドバイスをお願いします。
そうですね。まず、変化できる人になってほしいです。ベトナムで学んだことは「ベトナム人は変化を恐れない」という事でした。ベトナムでもコロナ禍でオンライン化をはじめさまざまなことが変わったわけですけど、彼らの対応力の速さはすごいです。そして新しいことをやるのにこだわりがないんです。そこはぜひ見習いたい部分です。
それから日本語教師という仕事が実は社会につながっているということに気づくとプロ意識も生まれるんじゃないかと思うので、広い視野を持ってほしいですね。
取材を終えて
この25年ぐらいの日本語学校の歴史をすべて体験してきた感のある松浦さん。お話を伺って感じたのは、どんな状況にも折れることのない“しなやかさ”でした。「はっきりした夢を持ってやってきたわけじゃなくて、ただ目の前のことをこなしてきただけなんです」とおっしゃっていますが、数々の縁や運を手繰り寄せられたのも、その行動力がなせる業だと思います。ベトナムと日本の働き方の違いに「すごいストレス」と言いながらも、それを楽しんでいるようにも見えました。ベトナムでのこれから、そして日本に帰国してからもご活躍を期待しています。
取材・執筆/仲山淳子
流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。5年前よりフリーランス教師として活動。
*1:一般財団法人日本語教育振興協会の略。日本語学校の質の向上に関わる事業などを行う。
*2:2010年に行政刷新会議によって行われた行政サービスの見直し作業。日振協も事業仕分けの対象となり、その結果、それまで日振協が行ってきた日本語学校の許認可は法務省が行うことになった。
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