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ゼロビギナーとの対話を考えることは、ことばの活動の原点  -日本語教育を考えるためのスタートライン3

細川英雄さんへのインタビューを通し、「ことばを教える」ことの本質へ迫る全3回の連載の最終回(第1回 第2回)。今回は、「でもゼロビギナーと対話するのは難しいから語彙、文法を教える必要があるよね」というよく起きる問いかけについて考えます。(深江新太郎)

ゼロビギナーと対話できないと考えるのはなぜか

――文型や語彙を何も知らないゼロビギナーは話すことができないから、対話するのは無理でしょ、という声は聞かれるのですが、この点についてはいかがでしょうか。

たしかに初級の人と対話できないと思っている人は本当に多いですね。とにかく何か基礎みたいなものを学ばないと何も始まらないという意識が、教師の側にも、学習者の側にも強いんです。私も日本語教師を始めた最初のころは、そのように思っていたのです。ただ、日本語を学ぶ多くの留学生と接する中で、一人一人が自分の言いたいことをことばによって相手に伝えるという立場に立つと、コミュニケーションはとれるということを実感するようになりました。ゼロビギナーとは対話ができないという立場には、こうした個人一人一人の声を聴くという発想が欠如しているんですね。この20年くらい、それはなぜだろう、とずっと考えてきたんです。

――なぜなのでしょうか。

教科書の存在ということに、やっと気づきました。教科書は、説明・導入があって、練習をして、応用に持っていくという流れに基本的にはなっていますね。この教科書の内容を教えることがことばを教えることだと思い込まれているのです。そうすると、この枠組みの中でしか、ことばの活動を考えなくなってしまうのです。近代以降、同じ知識を全員に習得させる必要があるということが制度化されていく中で、教科書の重みが増していきました。今さら教科書なしで、ということは誰も考えなくなりました。日本語教育は特に、まず教科書があってそれをどう教えるか、ということが当たり前になっています。

しかし、本来ことばの活動は、教科書を覚えてことばの活動をしましょう、というものではないのです。もともと自分が言いたいことがあって相手に伝えるためにはどうしたらよいか。これがコミュニケーションというものでしょう。その際、表情やジェスチャーなど非言語的なことも含めて相手に伝えようとします。そのありようは、教科書にはありません。教科書はそういうことを捨て去って、言語部分だけを中心に切り取って作られるからです。

――教科書からは、ことばの活動の本質が抜け落ちてしまうのですね。

はい、そういうことですね。本来、コミュニケーションというのはそういうものではない、ということに多くの教師は気づいているはずなんですね。ところが、ひとたび教室に入ると、それを忘れてしまい、教科書を使ってどう教えるのかということだけを考えてしまうようになるのです。教科書をつくる方も、大勢の人に同じように教科書を使ってもらいたい、だから、多様な学び手一人一人の声を聴くのではなく、いつの間にか決まった枠組みをつくることだけに専念するわけですね。このことから、どうしたらゼロビギナーと対話できるのか、と考えるのではなく、何も知らないゼロビギナーとは対話は無理という姿勢がつくられていくわけですね。

――どうしたらゼロビギナーと対話できるのか、と考えるのではなく、どうしてゼロビギナーと対話できないと考えるのかを問うたとき、教科書の存在がその要因になっているのですね。

はい、そうですね。今お話ししたように、教科書の枠組みでしか考えられなくなってしまっているのですね。そして、教科書の枠組みがなくなると、路頭に迷ってしまいます。1970年代から1980年代にかけて、日本でも海外でも盛んに言われたのが、「いい教科書がないから教えられない」ということでした。21世紀になっても、教科書を教えることイコールことばを教えること、という枠組みから、私たちはまだ自由になれていないのです。

教科書の枠組みを外れてことばの活動を考える手立て

――では、どうすれば教科書の枠組みを外れて考えられるのでしょうか。また、教科書の枠組みを外れた後、どうすれば路頭に迷わないのでしょうか。

まず自分自身のことばの活動を振り返ることです。自分はどうやって未知の人と付き合いを始めるのかという原点に立ち返ることです。まず、相手の名前や仕事を訊いたりするでしょう。あるいは興味関心について話題にしますよね。その反応によって、どの話題にフォーカスするのかを決めて、人間関係の距離を考えながら、ことばによって活動していきますよね。それは相手が外国人であろうと日本人であろうと、大人であろうと子どもであろうと関係ありません。つまり、相手が変わることで距離の取り方や話題が変わるわけですが、ことばの活動を行うという点では違いがありません。それは人間がことばによって生活しているからです。そこには教科書なんて存在しません。わからないことがあったら、教科書のどこに書いてあったかなどだれも思わないでしょう。

――私たちが日ごろ行っていることばの活動と教科書には大きな乖離があるのですね。

はい、そのとおりですね。教科書というのは、学校や教室という限られた場面の中で使われるマニュアルに過ぎません。日本語を教える=教科書を教えるという図式は、私たち一人一人の個人的な経験を封印してしまうのです。しかも、そのことに気づかないということが最大の問題点ですね。

――教師自身のことばの活動を振り返ってみることがスタートラインということですか。

はい、私たちは何のためにことばの活動を行っているのか、という問いかけがスタートです。

ゼロビギナーとの対話とは

――細川さんのお話を何かに置き換えながら理解できないかと考えたのですが、実は数年前にギターを始めました。ギターでメロディーを奏でるためには、CやFなどのコードを身につける必要があります。そのときのコードが文法と置き換えられるのではないかと思います。音楽の教科書なんかを開くとコード表がうわーって並べられていて、それだけで頭が痛くなります(笑)。そのときに、「自分の好きな曲を一曲、弾けるようになったらいいんじゃない」というアドバイスをもらいました。だからゼロビギナーなのに、「栄光の架け橋」にチャレンジし、それに必要なコードを身につけました。好きな曲を練習することで、それに必要なコードが身につき、そこから少し練習するといろんな曲が弾けるようになりました。似ていませんか。

とても近いと思います。最近、『世界中でことばのかけらを-日本語教師の旅と記憶』(筑摩書房)という本を出した山本冴里さんが、日本語教師の仕事でフランスの田舎に行ったとき全くフランス語ができなかったという話を書いていますね。周りにはフランス語を学べる学校はない。たまたまカミュの『異邦人』という小説の、カミュ自身が録音したテープかCDを手に入れることができ、もともと『異邦人』の大ファンだった山本さんは、その第1章をフランス語で丸暗記したそうです。そして、『異邦人』に出たカミュの表現を使うと通じるということが分かります。すると、変なフランス語を使う、変な日本人がいるということで有名になって(笑)、友達が増えていったそうです。これも教科書を順番に覚えるというのではなく、ことばの活動の塊を丸ごと自分のからだの中に入れて、それがどうなっているのか考えながら使うという、ことばの身体化の例ですね。

だからゼロビギナーだったら中身のある話ができないというわけではないんですね。たとえば、その人の興味や関心について話してください、と言ったら、必ず何か出てくるんです。もちろん、その人の母語で出てくるものもあります。そのほとんどが、こちらの知らないことです。2016年だったかな、イタリアのヴェネティアで出会った、ある学生は「私はモナリザが好きた」と言いました。モナリザが好きとはどういうことかと尋ねると、パリのルーブル美術館にあるモナリザの絵が好きだと言います。さらになぜ好きなのかを尋ねると、彼自身の絵を描くこと、絵を見ることとモナリザがつながっていることを少しずつ話してくれるんですね。このようなことは全く予備知識も私にはないのですが、すごく興味深いんです。こんな正解のないやりとりこそが、対話と呼べるのではないでしょうか。

このように、一人一人の個人の声を聴くことによって、ゼロビギナーは対話できないという立場からはしだいに解放されていくでしょうし、教科書の枠組みを外れて考えられるようにもなると思います。そういう自分を教師自身がつくることによって、路頭にも迷わなくなるでしょうね(笑)。

――最後にあらためて教科書について、ですが。教科書があっても、一人一人と向き合う姿勢を持てることが大切ということですね。教科書を離れて考えられるようになってはじめて、教科書を本当に活かすことができるということでしょうか。昔から言われている「教科書を教える」のか「教科書で教える」のかに通じることですね。

そうですね。教科書批判そのものが目的ではないので。とりわけ「教科書で教える」という場合の「何を教えるのか」ということを考える必要があります。教科書で日本語という言語を教えるのではなく、日本語という言語を使ったことばの活動をともに行うということになりますね。

むすび

これで全3回の細川さんとの対談はひとまず終わりとなります。僕たちは、何かを考えるとき、どこか土台が必要です。細川さんの話は、その土台を探り、土台へ遡っていくものでした。それは、教科書を使ってどのように授業を行うのか、というベクトルとは真逆の方向です。教室に入ると学生がいて、そこに絶えずあるのは「私-あなた(学生たち)」という関係です。ことばは、その関わりをつくっていく中で立ち現われていきます。このことばの活動に支えられた中で初めて、教科書を用いた学びが生きたものになるでしょう。

プロフィール

細川 英雄(ほそかわ ひでお):1949年東京生。早稲田大学第一文学部卒、同大学院文学研究科博士課程単位取得。博士(教育学)。信州大学、金沢大学、早稲田大学日本語研究教育センターを経て、2001年から早稲田大学大学院日本語教育研究科教授。1983-84年フランスINALCO日本語講師、1995-96年パリ大学交換研究員。2013年3月早期退職、以後、八ヶ岳にて言語文化教育研究所を主宰。2013-2022年まで言語文化教育研究学会ALCE代表理事。主著に『日本語教育は何をめざすか』(明石書店2002)、『「ことばの市民」になる』(ココ出版2012)、『対話することばの市民』(ココ出版2022)など多数。

執筆

深江 新太郎(ふかえ しんたろう):「在住外国人が自分らしく生活できるような小さな支援を行う」をミッションとしたNPO多文化共生プロジェクト代表。ほかに福岡県と福岡市が取り組む「地域日本語教育の総合的な体制づくり推進事業」のアドバイザー、コーディネータ―。文化庁委嘱・地域日本語教育アドバイザーなど。著書に『生活者としての外国人向け 私らしく暮らすための日本語ワークブック』(アルク)がある。

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