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木村宗男と平和のための日本語教育

 

2024年4月より日本語教育機関認定法が施行され国家資格「登録日本語教員」制度が開始されます。戦後の日本語教育の歩みの中でも大きな転換点を迎え、とりわけ、日本語教員養成は新たなフェーズに入ったと言えるでしょう。一方で、現代の地球社会には、環境や災害、紛争、感染症など、多くの危機的な問題が横たわっていて、日本語教育や日本語教師に求められる役割を広い視野で考えることも求められています。今回は、戦中・戦後に日本語教育に従事し、日本語教育学会の設立や教員養成に寄与した木村宗男に着目し、その活動と志向された平和のための日本語教育をご紹介します。(田中祐輔/筑波大学教授)

日本語教育との出会い

木村宗男は、東京日本語学校や京都日本語学校、神戸日本語学校の教師養成に参加し、日本語教育学会の立ち上げや、文化庁、国立国語研究所、国際交流基金、日本語教育学会が行う教師研修で活躍しました。また、早稲田大学を主軸に、慶應義塾大学や東京外国語大学、青山学院大学、東海大学、拓殖大学などにおける留学生への日本語教育の拡充に貢献した人物です。日本語教材や教授法、教育史の研究、そして教員養成などの分野で多くの功績を残し、現在の日本語教育の礎を築いた著名な先生でおられますが、その根底に戦時期の体験と平和への願いがあったことはあまり知られていません。そこには、どのような経緯と背景があったのでしょうか。

木村は、1911年に広島県広島市に生まれ、広島第一中学校、第二早稲田高等学院を経て、早稲田大学で学びます。会津八一や実藤恵秀、金田一京助等の講義を受け、坪内逍遥によるハムレットの朗読も聞いたという充実した学生生活でしたが、卒業までの間に二度の肺結核と虫垂炎にかかり、また、休学中は中国新聞社で働くなど苦学しました。1939年に、卒業論文『ヘンリー・ジェームズ研究』を提出し文学部(英文学専攻)を卒業します。

その後、東京府立機械工業学校の英語科の講師となり、しばらく代官山の同潤会アパートで暮らしながら英語教育に従事しました。授業を行いながらパーマーの英語教授法などを学ぶ毎日でしたが、徐々に戦争が激しくなります。木村は物資の統制や英語教育への風当たりが強くなってきた社会状況を鑑み、1943年に文部省南方派遣日本語教育要員養成所(第二次募集)に応募します。当時の様子について、後に次のように語っています。

職員室の話題でですね、「英語科は、そのうちなくなるんだって?」というようなことをいうんですね。「英語科がなくなって、英語の教員は生徒をつれて、兵器工場などへ勤労動員の監督に行くんだ」というような話でしてね。それは世間でも言われているし、東京府の英語教育の大会なんていうところへ行っても、そういう不安が語られたりしていましてね、面白くないですよね。それに、市民生活そのものがもう非常に窮屈になっていますし、なんとなく、内地は閉塞状態というような感じで。そういうときにですね、あれは、昭和17年に、文部省に南方派遣日本語教員養成所というものが開設されまして、その第1回の募集があったんです。(中略)英語教員として英語が教えられない、そして、勤労動員の監督として工場でぶらぶらしてるというのはつまらない、という気がしたんですね。(中略)それなら、自分が習った英語を活かして、外地で働きたいと、それが国のためにもなるというようなことを考えましてね、それで応募したんです1

審査は国語と作文、面接と身体検査で行われました。木村は採用され、三週間の日本語教師養成講習を受講した上で、陸軍省の発令にて貨物船あさか丸でフィリピンに派遣されました。

フィリピンでの日本語教育実践

木村は派遣先のフィリピンで、東洋の真珠と呼ばれたマニラの市役所において日本語教育に取り組みました。午前中は、市役所職員向け日本語教室を2クラス受け持ち、午後は、市役所に隣接していたフィリピン教育省日本語課での日本語教材作成、また、『ハナシコトバ』(東亜同文会・1941)の指導書の英訳なども行い充実した日々でした。

市役所の日本語教室における学習者と教師の関係は授業が継続されている期間は比較的良好で、近くの公園にでかけたり、海で丸木船に乗ったり、誕生日には、木村の背丈に合わせてオーダーしたカミサ(フィリピンの民族衣装の一つ)が受講生から贈られたりもしました。しかし、それも長くは続かず、戦況の悪化で完全に授業が行えない状況となります。

昭和十九年九月二十一日はマニラで防空演習がある日だった。シティーホールで、いつものように『ハナシコトバ』を使って授業をしているときだった、今まで聞いたこともない飛行機の爆音が聞こえてきた。続いて、高射砲の音がする。「今日は防空演習だ」と自分に言い聞かせたとき、窓の外で「アメリカーノ」というカン高い声がした。一瞬、生徒の市役所職員たちは、身じろぎもせず、視線は私に集中している。私は窓に近寄って空を見上げた。見たこともない飛行機の大群がマニラ市の上空を南から北へ進んでいる。ルネタ公園辺りから高射砲を発射する音が響く。「こりゃ、いけない」と思った。生徒に向かって、「終わりです。」と言った。男女の職員はいっせいに立ち上がって、押し合いながら教室を出ていく。私もその群の中に入って、階段を下り、地下室の入り口までかけおりた。(中略)この日が私の、いや比島日本語教育の終わりの日となった。以後、日本語教員は、比島政務班員として、日本語教育以外の種々の慣れない業務につくことになった。進に次ぐ転進の苦難はこの日から始まったのである2

 

派遣されていた日本語教師たちには自宅待機が指示され、以降、木村が市役所の教室に向かうバスが宿舎に迎えに来ることもなくなりました。ほどなくして、宿舎警備が命じられ、後にバヨンボン出張所に木村は配置転換になります。米軍が市中に進むにつれ、日本人たちは山林の奥へ奥へと移り。アメリカ国立公文書記録管理局デジタルアーカイブには、木村が勤務していた市役所の倒壊した姿が保存されています。3

ついに、日本語教育が再開されることはなく、木村は山中をさまよった時の心境を後に次のように書き残しています。

ルソン島山岳州の山深いところに分け入って、生還の可能性のない日々を過ごしていたところ、夜になるときまって雨になった。高い木立から落ちる雨だれの音のほかはなにも聞こえない暗闇の中で眠れない夜を過ごしたとき、互いにつぶやいたものだった。「内地はどうしているかなあ。なんとかして生きて還りたいもんだ。還って、この情況を内地の人たちに知らせたい」と。4

捕虜生活と帰国

多くの人々が命を失う中、1945年8月15日を迎えます。木村は最終的に捕虜となり、一年三ヵ月間、英語を使い、時にフィリピンの戦犯事務所などで働きもしました。事務所では、いわゆるマニラ軍事裁判(日本のBC級戦争犯罪人に対するアメリカ軍による軍事裁判)の資料作成などが行われ、米軍将校や弁護士に依頼された書類(戦犯に関わるノートや手紙、遺書など)をメモや記録なしで口頭で英訳し、米軍側が記録する作業に取り組みました(写真は1945年10月8日〜1947年4月15日に開廷されたマニラ軍事裁判の様子5)。家族は広島市内の夫人の実家で罹災し、子供二人を失っています。また、木村の母は広島市内で被爆し、一月後に亡くなります。1946年12月、木村は日本へ移送され、帰国を果たしました。

終戦後の日本語教育

木村宗男と同じ日本語要員として一足先にフィリピンに赴いた小出詞子は、その後、戦況の悪化から女性教員のみ先に戻された帰国船で帰国していましたが、終戦後の日本語教育のことについて「終戦と共に、日本語教育などはどこかに吹き飛び、全く縁がきれたと思い、英語を教えたりして数年がすぎた6」と述べ、茨城県の鯉淵学園で英語教師として勤務したことを述懐しています。木村も帰国後、混乱の中での仕事探しとなり、1947年4月に、杉並区立宮前中学校教諭の職を得ました。その後1949年に、突如として日本語教育に復帰する機会が訪れ、当時の様子を木村は次のように振り返っています。

一月のある日、突然、長沼先生がG・Iの運転するジープで、代官山のアパートへ訪ねて来られた。そのとき私は留守にしていた。近所の人は私が戦犯で調べられるのではないかと、心配してくれた。そんな時代だった。長沼先生が来られたのは、小川健二さんの推薦だった(中略)四月、東京日本語学校が創設されて再び日本語を教えることになった7

長沼先生というのは、東京日本語学校(長沼スクール)の創設者で、戦後の日本語教育の立役者となった長沼直兄です。東京日本語学校の設立期は在校生の中心はキリスト教宣教師でした。当時、中国の内戦の影響で日本に多くの宣教師が渡り、都市部などでの日本語教師の増員が必要となったのです。また、1951年に、東京日本語学校軽井沢分校において日本語教師講習会が開催される運びとなり、京都日本語学校と、神戸日本語学校の教師養成が行われました。木村も日本語を教える仕事をしながら世話役として参加し、その後、毎年開催された本講習会受講者を会員とする日本語教師連盟を任都栗暁らと結成しました。1961年、後の日本語教育学会の前身となる『外国人のための日本語教育研究会』の設立に携わり、第一回研究会を早稲田大学で実施。翌年、『外国人のための日本語教育学会』が設立され、理事や副会長を務めました。1963年に早稲田大学語学教育研究所専任講師となり、退職するまで、東京日本語学校での仕事は続きました(写真は日本語教育学会専務理事の頃8)。

新たな時代における日本語教育への想い

木村は帰国後、一時的な仕事を除き、日本語教育を専門として生涯を終えましたが、もう一つ、取り組んだライフワークがありました。それは、フィリピンの復興支援と戦没者の慰霊です。フィリピンへの支援に関しては、特に治水事業に携わり、イフガオ州アシン川流域に小規模水力発電を設置する会(CACEPPI)を創設し、代表として活動しました。先に引用した『さむぱぎいた』に収録された木村やその他の元日本語要員の手記には戦時中の体験と、亡くなった人々や現地の人々への想いが綴られています。

戦争で亡くなった全ての人々、その貴重な犠牲の上に成り立ってきた現在の日本の国、この国が果たして今、犠牲者の霊前に対して恥ずかしくない状態と言えるのかどうか…?深く自問自答するばかりです。9

生き残った仲間も、やがてはひとりいき、ふたりいき、ということになるにちがいないが、生きているかぎり、なくなった同僚の霊を慰めることと、遺族の方と悲しみを分け合い、力になってあげること、そして、あのような悲惨なことを二度と起こさないために、惨状を多くの人に知ってもらうよう努めること、これだけは生きて帰ったわれわれの、なくなったものへの負債であると思う。10

戦時中に命を失った元同僚や遺族に対する責任感に駆立てられるように、木村は晩年、日本語教育の振興と過去の出来事の記録に取り組み、時に日本語教師が体制の中で、道を誤ってしまうことへの警鐘を鳴らし続けました。それは日本語教育史という学問分野の創設にもつながり、研究会立ち上げや論文書籍の発表へと繋がってゆくこととなります。フィリピンでの体験を振り返り木村が述べた言葉を引用します。

学習者の側に、言葉による交流を求める欲求があり、教師にはそれに応えることの満足感があったことによると言えると思う。それにしても、相互に多くの犠牲を払ったものではある。ともあれ、戦時中の占領諸地域で実施された日本語教育は、その結末はどうであれ、その動機において不純なものがあったことは、釈明の余地はない。その点を強く反省しなければならない。同時に被占領地の人々の意に反しても日本語学習を強制し、幾多の償い得ない心的・物的被害を与える結果になったことを深く謝らなければならないと思う。11

戦後、木村は著作や対話の中で“平和”という言葉を用いるようになり、晩年に直面した学習者の急増や日本語教育の規模拡大については「日本語教育が盛んになっていくことは、当事者の一人として喜ばしいことと思うが、ここで過去を振り返って、将来を誤らぬことが肝要である12」という言葉も残しています。戦後の日本語教育を牽引した木村宗男の日本語教育者としての活動の根源には、木村自身の終戦前後の体験が深く関わっており、現地の人々や元同僚、遺族への想いと平和への願いがあったのです(写真は戦没者追悼法要に集まった元フィリピン派遣日本語教師たち。前列右から二人目が木村で、前列左端が小出詞子13)。

戦後八十年を目前に、日本語教育は過去最多の全世界142の国・地域で実施され、海外の学習者数は実に約400万人に達します。日本語学習ニーズは増加し、教員養成の需要も高まっています。一方で、世界に目を向けると、現代の地球社会には、環境問題、格差や貧困の問題、そして、災害や紛争、感染症の問題など、多くの危機的な問題が横たわっていて、日本語教育や日本語教師の役割を広い視野に立って考えることも求められています。木村の歩んだ道のりと活動、そして木村が目指した日本語教育からは、課題解決に向け共に考え共に未来を築く上での重要な示唆が得られると感じられるのです。

      

    1. 木村宗男先生米寿記念論集刊行委員会(2000)『日本語教育史論考ー木村宗男先生米寿記念論集ー』凡人社、pp.233-234
    2. 木村宗男(1991)「比島日本語要員記(続)」『さむぱぎいた 第8集』 pp.34-35
    3. National Archives Identifier: 204949556
    4. 木村宗男(1991)「『さむぱぎいた』の終刊に当たって」『さむぱぎいた 第8集』 p.1
    5. ジャパンアーカイブズ
    6. 小出詞子(1991)『日本語教育とともに―小出詞子著作集―』凡人社、p.216
    7. 木村宗男先生米寿記念論集刊行委員会(2000)『日本語教育史論考―木村宗男先生米寿記念論集―』凡人社、p.iv
    8. 国立国語研究所 日本語教育映像教材シリーズデータセット(『日本語教育映画 基礎編』)
    9. 松浦浩道(1995)「「戦後五十年特別記念号」刊行によせて」『さむぱぎいた 戦後50年特別記念号』 p.4
    10. 木村宗男(1986)「生きているものの負債」『さむぱぎいた 第1集』 p.29
    11. 木村宗男(2000)「戦時南方占領地における日本語教育」『講座 日本語と日本語教育15〜日本語教育の歴史〜』明治書院、p.158
    12. 木村宗男(1982)『日本語教授法ー研究と実践ー』凡人社、p.294
    13. 元比島日本語教育要員の会(1988)『さむぱぎいた 第5集』 p.71

    木村宗男(Muneo KIMURA)

    1911年、広島県広島市生まれ。1939年、早稲田大学文学部英文科卒業。東京府立機械工業学校の英語講師を経て、1943年、文部省南方派遣日本語教育要員養成所(第二次募集)に応募。同年九月に門司港から貨物船あさか丸でフィリピンに派遣。マニラ市役所で日本語教育に従事した。終戦後、捕虜となり一年三カ月間を収容所で過ごし194612月に帰国。19474月に杉並区立宮前中学校の英語科教諭となるが、1949年に長沼直兄に請われ退職し、東京日本語学校で日本語教育に従事。1951年、東京日本語学校軽井沢分校で日本語教師講習会が開催され、設立されたばかりの京都日本語学校と神戸日本語学校の教師養成に世話係として参加。その後、毎年開催された本講習会受講者を会員とする日本語教師連盟を任都栗暁らと結成。1960年、早稲田大学教務課の非常勤嘱託。1961年、後の日本語教育学会の前身となる『外国人のための日本語教育研究会』の設立に携わり、第一回研究会を早稲田大学で実施。翌年、『外国人のための日本語教育学会』設立。1963年に早稲田大学語学教育研究所専任講師着任(東京日本語学校退職)。1967年、早稲田大学語学教育研究所教授。1982年、早稲田大学定年退職、名誉教授。1985年から1989年まで、日本語教育学会副会長を務めた(会長:林大)。また、1998年には、戦時中に派遣されたフィリピンへの援助活動として、イフガオ州アシン川流域に小規模水力発電を設置する会(CACEPPI)を創設し、代表としても活動した。1981年、勲四等瑞宝章受章。2005年没(享年93歳)。


    *引用文中の下線は筆者による

    執筆/田中祐輔

    筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、筑波大学人文社会系教授。主な著書に『日本語で考えたくなる科学の問い』(編著・凡人社)、『上級日本語教材 日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、などがある。主な受賞に、2018年度日本語教育学会奨励賞、第32回大平正芳記念賞特別賞、2019年・2021年児童教育実践についての研究助成優秀賞、第14回キッズデザイン協議会会長賞、2023年度グッドデザイン賞、などがある。

    *科学技術振興機構 researchmap

    *研究室

     

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