日本語教師のみなさんは「コーチング」と聞くと何を思い浮かべますか。「難しそう」とか「企業でやっているやつだから、関係ない」とか思っていませんか。実はコーチングは教育現場でも大いに力を発揮します。この連載では、学習者の目標達成や成長を促すコーチングの基本を知り、それをどのように日本語教育の現場に生かせるのか、解説していきたいと思います。第1回では、コーチングとは何か、ティーチングとはどう違うのか、ティーチングとコーチングにはそれぞれどんな利点があり、どんな場面で使えるのか、などについてお話しします。(伊藤奈津美/早稲田大学 日本語教育研究センター 准教授)
コーチングとは
コーチングを理解するために、まずコーチとは何なのかについて考えてみましょう。
コーチングを実施する人をコーチと言いますが、英語の“Coach”は、もともと「馬車」という意味です。語源はハンガリー語で、馬車が初めて造られた町の名前に由来しています。馬車は、大切な人や物を目的地まで運ぶものでした。そこから、コーチとはクライアントを快適に目的地まで連れていく存在と言えるでしょう。日本では、コーチは、主にスポーツ分野でその技術の指導や訓練をする人という意味で長らく使われてきました。しかし、コーチングを行うコーチは、技術指導や訓練を行うのではなく、クライアントの主体性を尊重し、なりたい自分になること、目標を達成することをサポートする役割を担う存在です。しかし、本当にコーチは、サポートするだけでいいのか、指導や訓練をしなくてもいいのかという疑問を持つかもしれません。
ではここで、コーチングの基礎となった理論に目を向けてみましょう。コーチングは1970年代にアメリカではじまったとされています。その背景となった学問の一つに、人間性心理学があり、特に影響を与えたのが、マズローとカール・ロジャースでした。マズローは5段階欲求説*1で有名ですが、その根底にあるのは、人間が生まれつき持つ精神的本性は、常に実現に向かっているという考えでした。また、カール・ロジャースは、人間には自己実現する力が自然に備わっており、成長と可能性の実現に向けて行動するのは、人間の性質であり、本能であると述べました。つまり、クライアントには自分自身で目標を達成する力が内在しており、コーチはその力を発揮できるようにクライアントを促せばよいということなのです。ここでいうクライアントは日本語教師にとっては「学習者」ということになります。
以上のことから、コーチングとは、コーチとクライアントが対話を重ね、クライアント自身が目標を達成するために、新しい気づきを得ること、多様な視点で考えること、行動すること、を共に実現していく過程の協同作業と言えるでしょう。
コーチの持つべき態度
上述したように、コーチはあくまでもクライアントが目標に到達することをサポートする存在です。では、コーチはクライアントに対して、どのような態度で臨んだらよいのでしょうか。コーチがクライアントとの関係性を確立し、クライアントをサポートするうえで必要な基本姿勢は、カール・ロジャースの理論に影響を受けています。カール・ロジャースは論文*2の中で、支援者の心得として、3つの条件を挙げています。これは、中核3条件と呼ばれています。この中核3条件は、カウンセリングだけでなく、コーチングやキャリアコンサルティングなど対人支援に関わる人の基本姿勢として、広く支持されています。
カール・ロジャースはそれ以前に行われていた支援者がクライアントに指示を与えるようなカウンセリングではなく、対等な関係をカウンセリングに持ち込みました。支援者が知識や指示を与えなくても、支援者とクライアントの関係性の確立、適切な働きかけがあれば、クライアントは自ら成長の方向に向かうと考えたからです。
ティーチングとコーチング
日本語教師としての役割のひとつに日本語を教えるということが挙げられます。それでは、この「教える(ティーチング)」とコーチングの関係はどのようなものなのでしょうか。まず、ここでいう「教える(ティーチング)」は、知識やスキルなどを相手に与えることと考えてください。図1にタスクの難易度・重要度とクライアントの能力・スキルを軸に、ティーチングとコーチングの関係を表しました。
縦軸の「タスクの難易度・重要度」は、クライアントが目標とするタスクの難易度・重要度を指します。難易度は目標を達成するために必要な時間の長さやタスクの分量の多さも考慮する必要があります。重要度は、そのタスクがクライアントにとってどの程度重要なのかによって変わります。横軸の「クライアントの能力・スキル」は、クライアントが類似の経験と既有知識を持っていて、目標とするタスクを遂行できることや、思考力などの個人が持つ能力があること、コミュニケーション力やリーダーシップなどのヒューマンスキル、技術的スキルを指します。
タスクの難易度・重要度が高く、クライアントがやったことがないことや知識がない場合、やり方や知識を教える必要があります(図1、左上)。それに対して、クライアントに類似の経験や既有知識のあることなら、目標を達成するために何をしたらいいのか、コーチはクライアントが目標の方向に歩むサポートをします(図1、右上)。そして、クライアントに類似の経験や既有知識があり、かつタスクの難易度・重要度が高くない場合、クライアントは自分自身で目標に到達することができるでしょう(図1、右下)。最後に、クライアントがやったことがないことや知識がないことで、かつタスクの難易度・重要度が高くない場合を考えてみましょう。この場合は、必要な知識を教えることもあるでしょうし、できるところはコーチングを行うということもあるでしょう。
図1でティーチングとコーチングの関係を示しましたが、いつもこのようにはっきりと、どちらかひとつの手法だけでよいかというと、それは現実的ではないと思います。たとえば、以下の事例をみなさんは、どう考えるでしょうか。
ケース:Aさんが1週間後の口頭試験が心配だと相談に来ました。Aさんは初級レベルの学生です。1週間後の口頭試験では、テ形を使った会話が出題されます。しかし、Aさんはいつもテ形の活用を間違えます。
このケースでは、みなさんはどう対応するでしょうか。テ形はすでに学習した項目ですから、コーチングだけでいいでしょうか。いつも活用を間違えるということは、間違えて覚えている、理解していない可能性もあります。この場合、期間は1週間ですから猶予があるわけではありません。もし1か月あったらどうでしょうか。また、Aさんの性格や日本語学習に対するモチベーションはどうでしょうか。このように、コーチングとティーチングの手法をどのように使うかは、いくつもの要素から考慮する必要があります。
最後に、ティーチングとコーチング、それぞれのメリットと適した場面を挙げてみましょう。
表2は主に教育分野を想定していますが、ビジネス分野でも適用できるものです。ティーチングやコーチングにはもちろん限界もあります。ティーチングの限界は、教師の知識や経験に左右されること、教えられる人の個性は生かされにくいこと、教えられる人が受身になりがちであることが挙げられます。コーチングに関しては、基本的に1対1のセッションを想定しているため、一度に多くの人を育成するのが難しいこと、クライアントに全く知識や経験がないときは引き出す要素がないこと、ある程度時間が必要であることが挙げられます。
このように、ティーチングとコーチングは、どちらが優れているということではなく、適切な選択でどちらも効果を発揮します。クライアントの状況や場面によって、よりよい方法を選択したり、併用したりするとより効果的です。
まとめ
今回は、コーチングの基本知識とティーチングとコーチングの違いなどを取り上げました。日本語教師は日本語を教えるという役割を担っていますが、学習者の目標達成や成長を促すコーチングの知識やスキルを身につけておくことは、日本語教師の強みの一つになるのではないでしょうか。次回は、具体的に日本語教師として、どのような場面でコーチングを使うのか、そのときどのような効果が見込まれるのかについて述べたいと思います。さらに、コーチングの基本と言える傾聴について詳しく紹介します。
☆より専門的に知りたい方は以下の参考文献をご覧ください。
・Maslow,A.H.(1954): Motivation and Personality(2nd ed.). NewYork:Harper.(小口忠彦訳(1987)人間性の心理学 産能大出版部)
・Rogers, C.R.(1951):Client-Centered Therapy. Boston: Houghton Mifilin.(保坂亨・諸富祥彦・末武康弘訳(2005)ロジャース主要著作集2・クライアント中心療法 岩崎学術出版)
☆本記事には、一般社団法人日本リーダーコーチ協会主催「対話型コミュニケーター・コーチ養成講座」で学んだ内容が含まれます。
執筆:伊藤奈津美 博士(日本語学・日本語教育学)
早稲田大学 日本語教育研究センター 准教授。帝京大学教育学部非常勤講師。株式会社日立製作所勤務のあと、日本語教師となり、本務校では留学生対象の日本語科目、非常勤講師としては、日本語教育副専攻科目を担当している。国家資格キャリアコンサルタント。一般社団法人日本リーダーコーチ協会でコーチングを学び、現在大手ゼネコンに勤務する外国籍社員のメンターを務めている。
*1:人間の欲求は段階的であり、その段階は①生理的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の欲求、④承認の欲求、⑤自己実現の欲求、であるとした。1段階の欲求が満たされると、次の欲求が現れるとされる(Maslow,A.H.1954)。
*2:Rogers, C.R.(1957):The necessary and sufficient conditions of therapeutic personality change. Journal of Consulting Psychology, 21(2),95-103.(伊東博・村山正治監訳(2001)セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件 H.カーシェンバウム編、V.L.ヘンダーソン編 ロジャーズ選集(上) 誠信書房 265-285)
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