2022年はイギリス公使館の通訳と駐日公使を務めたアーネスト・サトウ来日後160年にあたります。サトウは、幕末から明治維新前後にかけて通算25年もの間日本に滞在し、徳川慶喜や勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、井上馨、大久保利通といった面々と親交を持ちながら、外交から文化交流、そして学術研究に至るまで幅広く功績を遺しました。今回は、そのうちサトウと日本との出会いや、日本語学習と研究、そして、サトウ自身が作成した日本語教材をご紹介します。(田中祐輔:青山学院大学准教授)
日本との出会い
サトウが日本で広く知られるようになったのは1921年にロンドンで出版された自著"A Diplomat in Japan"(Seeley, Service & Company)の翻訳版『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳・岩波書店)が、刊行から四十年後の1960年に日本で出版されたことに端を発します。なぜ、翻訳版まで長い年月を要したかというと、先に挙げたサトウの著作"A Diplomat in Japan"が日本では1924年から終戦まで禁書扱いとなってしまったからです。同著作にはサトウが直接目にし、時に自らも関与した明治維新にまつわる数々の出来事が記されているのですが、幕末から明治への移行期に日本の要人がいかに活動したか、また、種々の出来事がいかに列強との交渉や関係の中で展開されていたかを示すものでもあり、その内容があまりに具体的で生々しいことが禁書指定となった理由ともいわれています。サトウの著作が解禁され、容易に入手することのできる岩波文庫版の翻訳が発表されたのはサトウの死後30年が経過してからでした。
では、サトウ自身は、日本をどのように知り、来日することになったのでしょうか。実は、きっかけはサトウのお兄さんにあります。イギリスの名門大学であるUniversity College Londonにサトウが在学していた折に、兄エドワード(後に上海で客死)が図書館から借りてきた本で日本の魅力と出会ったのです。その本は『Narrative of the Earl of Elgin's mission to China and Japan in the years 1857, '58, '59』(ローレンス・オリファント著)というもので、幕末の日本を訪問して日英修好通商条約を締結したイギリスのエルギン伯爵が日本滞在時に見た日本の様子や文化・習俗が豊富な挿絵とともに記述されています(下図参照)。
サトウは感銘を受け、日本に強い関心を抱くようになります。そして、その直後、思いがけない幸運が訪れます。
ある日のことだった。当時私が学んでいたロンドンのユニバーシティ・カレッジの図書館に入ると、テーブルの上に告示がしてあった。(中略)日本へゆく三名の通訳生をもとめているが、その推薦は本大学の学長の適当と思う方法によって行うというのであった。これこそ、私のかねて望んでいた絶好の機会であった。*1
天の導きのような形でサトウは1861年にイギリス外務省領事部門に通訳生として入省し、約半年の上海と北京での滞在を経てイギリス駐日公使館の通訳生として19歳で来日を果たしました。1862年9月8日のことです。
厳しい日本語学習環境と懸命の努力
来日当初の感動を、サトウは次のように書き残しています。
実に陽光燦々(さんさん)たる、日本晴れの一日であった。江戸湾を遡行(そこう)する途中、これにまさる風景は世界のどこにもあるまいと思った。濃緑の森林をまとった形状区々たる小山が南岸一帯に連なっている。それらを見おろすように、富士の秀麗な円錐峰(えんすいほう)が残雪をわずかに見せながら一万二千フィート以上の高空にそびえていた。*2
美しく自然豊かな日本の情景が、富士の堂々たる姿とともに見事に描写されています。到着後、現在ではヘボン式ローマ字で知られ当時は和英辞書の編纂に取り組んでいたジェームス・カーティス・ヘボンと、宣教師で日本語教材も作成していたサミュエル・ロビンス・ブラウンと面会し親交を深めます。特に、ブラウンからは週2回の日本語学習の手ほどきを受けました。
サトウは日本語の熟達が自身の役割を果たす上で最も重要なことであると認識し、懸命に学ぼうとネイティブ教師や教材を探し求めます。ところが、今から160年前の日本には、日本語学習のための十分な教材や教師陣は揃っておらず、非常に苦労しました。
断わっておくが、「教師」と言っても「教える」ことのできる人をさすのではない。日本でも北京でも、当時の私たちはー語も英語を知らぬその国の人間を相手にして勉強したのだ。文章の意味を知る方法は、小説家のポーが「黄金虫(ゴールド・ビートル)」の中で暗号文の判読について述べているのと、ほとんど同様のものであった。私の「給仕(ボーイ)」も英語を知らなかったが、私はこの給仕の世話で、以前は医者であったが、現在遊んでいるから無報酬で日本語を教えようという男に来てもらった。われわれは、最初は漢字を書きくだして、互いに双方の思いを通じ合った。この男の書いた最初の文章の一句を記せば、「君愛衆人、我亦敬君如主(プリンス ラブス メン アイ オルソ ヴェネレート ザ プリンス アズ ア マスター)」というのであった。私はあとになって、この君(プリンス)は汝(ユー)の丁寧な言い方に過ぎないと推察した。彼は、一ドルも一分銀もたくさん持っているから報酬はいらないと言った。そこで、毎日十時から一時まで私の部屋へきてもらうことに決めたが、この最初の会合依頼、二度と姿を見せなかった。*3
難解な日本語と向き合うサトウの姿が暗号文の判読のようだという記述からもうかがえます。また、ボランティア教師とのやりとりや、その後二度と来なくなってしまった経緯を見ると、教える側も学ぶ側も、何をどう進めたらよいか全くわからない状態であったことがよく分かります。
それでも、サトウはくじけずに、宣教師のサミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師の高岡要、徳島藩士の沼田寅三郎、そして、自身の秘書兼ボディガードを務めた野口富蔵から日本語を学びました。自らの職務に関わる書き言葉の習得にも力を入れ、次のように回想しています。
高岡は、私に書簡文を教え出した。彼は、草書で短い手紙を書き、これを楷書に書き直して、その意味を私に説明した。私はそれの英訳文を作り、数日間はそのままにして置いて、その間に原文の写しのあちこちを読む練習をした。それから、私の英訳文を取り出して、記憶をたどりながら、それを日本語に訳し直した。*4
日本語で書かれた草書体の手紙を英語に翻訳し、原文を丹念に読み込んだ上で、数日後に翻訳された英語のみを見て日本語に訳し戻すといったトレーニングが行われました。この方法は、ネイティブの書いた原文を緻密に翻訳することで、日本語の文章の特徴や構造、敬語表現、頭語・結語、挨拶などの独特の用法を理解することができます。また、自らの英訳文を原文に訳し直すことで、訳文とのずれや矛盾、誤解に気づくことができ、さらには日本語の表現力そのものも磨くことができます。
サトウはこうした懸命の努力で日本語を上達させ、パークス公使らの通訳として働き、外交交渉にも立ち会う重要な役割を果たすようになります。そして、冒頭でお示しした幕末から明治維新にかけて活躍した要人たちとも直に交流し、信頼関係を築いていきました。サトウが1869年に日本を離れる際には、非常に惜しまれ、明治天皇から蒔絵の用箪笥が、勝海舟からは自らの脇差がサトウに餞別として贈られたほどです。
サトウの日本語教材
このように厳しい環境の中で日本語を上達させたサトウですが、日本語を学ぶための教材の入手にも大変な苦労を味わいました。そもそも、世界に日本語の教科書がほとんどない時代です。あっても、サトウが使う機会の少ない長崎方言が中心のものや、古い日本語しか記されていないもの、英語ではなくオランダ語やフランス語で解説が書かれているものなどで、しかもそれらは日本ではほとんど入手できないものでした。教材不足で後進たちも苦労することがないようにと、サトウは自身の手で1873年に日本語教材『KUAIWA HEN(会話篇)』を横浜で刊行しています。そして、1876年には石橋政方との共著で『An English-Japanese Dictionary of the Spoken Language.(英和口語辞典)』を刊行しています。その中身はどのようなものだったのでしょうか。『KUAIWA HEN(会話篇)』は、その名の通り会話を主体としたもので、全3部で構成されています。第1部は会話文例が英訳とともに示され、第2部は会話文で使われている語の英語解説、第3 部は会話文のかな書きが示されています。
図の上段のContentsは第1部の目次です。往来、売買、教師と学習者、主人と使用人、火事、新年、主人と客、旅、訴訟、挨拶等、当時の生活に必要な言葉が場面別に導入されていることが分かります。具体的にどのような会話が掲載されたかは図の下段をご覧ください。ここでは、3課の「Teacher and Pupil(教師と学習者)」の例文を24ピックアップしました。「1.師匠がまだございません」から始まり、「5.一月の謝礼はどのくらいやったらよかろう」「6.まあ〜両で十分でござりましょう」「9.何年ばかり稽古しておいでなさるか」「12.先生、これはどういう意味でございますか」「16.稽古をするにどういう按配に始めたらよかろう」「21.まず、仮名をよく覚えて、もうずんずんと読めるくらいになったら、それからちっと漢字を覚えなさるがよかろうと存じます」など、当時の人々の素朴な会話のあり様が描かれていて実に興味深いです。
このように、課の構成や例文を読むと、現代で言うところの場面シラバスによって組み立てられ、その会話が発せられる目的や達成されるべきことが明確に意識されていることがよくわかります。今の我々から見ると初学者が学ぶには難しい表現も見られますが、当時の日本で生活する上で必要な表現が厳選されており、課の設定する場面や状況に実際に遭遇した際には、効果的に対処することができます。現代の日本語教育の見地から考えても決して古くない、非常に実践的で理論立てられた教科書であるといえます。
サトウの愛した日本
サトウは、10歳ほど年下の武田兼という女性と2男1女を設けました(娘は1歳5ヶ月で夭逝)。イギリス帰国後は家族と離れて暮らすことになりましたが、終生家族への生活費や連絡を欠かさなかったそうです。確認されているだけでも300通を超える手紙が兼らに送られています。長男の栄太郎はアメリカのコロラド州に移住し現地で結婚、農業を営み1926年に亡くなっています。次男の久吉は、東京外国語学校を経て1910年にイギリス留学を果たします。植物学を専門にし、王立キュー植物園やUniversity of Londonで講義を聴き、Imperial College London of Science and Technologyで学びます。その後University of Birminghamでも研究、1916年に理学博士(東京帝国大学)の学位を取得しました。京都大学や北海道大学で教鞭を執り、日本山岳会の創設にも関わり、日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任し、1972年に89歳で死去しています。
サトウは長男栄太郎が亡くなってから三年後の1929年8月26日にこの世を去りました。日本でも翌々日の『東京朝日新聞』(夕刊・2面)に訃報が掲載され、「日英関係に貢献する所大なるものがあつた」「日本を世界に紹介した功績」「英和辞典および『日用日本語研究』等の著述は当時の日本英学生を利するところすこぶる大なるものがあつた」「日本が故サトウ氏に感謝しなければならぬ」と、その功績と感謝の意が記されています。
サトウは生前、友人に宛てた手紙の中で、日本について言及することがありました。そこには、「わたしはあの国でじつに幸福でした。」(1884年3月20日)*5「1862年から1869にかけての時代は、私の人生で最も活気に満ちた時代でした。あの頃は私は本当に生きていました。」(1893年11月2日付)*6といった記述が見られ、日本での体験や人との出会いはサトウの人生にとってかけがえのないものであったことが分かります。
駐日特命全権公使として来日した翌年の1896年、サトウは奥日光に山荘を建てています。この建物は、その後、英国大使館別荘として2008年まで利用され、現在は修理復元された建物が一般公開されています。建物とその周辺の景色からは、サトウの愛した中禅寺湖と白根山などの山々を当時とほぼ変わらない状態で一望することができます。湖の静かな波音と、山々から吹きおろすひんやりした風を受けていると、まるでサトウが愛した日本、サトウが生きた日本にいるようです。
サトウが残した日記や著作、資料からは、江戸から明治にかけてのダイナミックな展開や当時の要人たちの軌跡を知ることができます。そしてまた、サトウが作成した日本語教材や辞書、日本の社会や文化に関する資料からは当時の日本語やその学習と教育、社会とそこに生きる人々を理解することができます。そこには、生活上の苦労や不便への不満、イギリスという強国の立場に立った考え方などの記述は見られますが、全体に通ずる筆致には、日本とそこに生きる人々に対する深い愛情が感じられます。明治維新という、日本の大きな変化と飛躍の時期に、サトウというよき理解者が不思議な巡り合わせで来日し、日本に世界を伝え世界に日本を伝えたことは、日本にとっても幸福なことであったのではないかと思うのです。
謝辞
記事の作成にあたり、英国大使館別荘記念公園、横浜開港資料館のみなさまに資料提供のご協力をいただきました。ここに記して感謝申し上げます。
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)
1843年、ロンドン生まれ。サトウ(Satow)という姓はドイツ北東部に移動し定住したスラブ系ヴェンド人に由来。姓そのものは日本と縁もゆかりもないが、その発音が日本の「佐藤」と似ていたことから、サトウ自身、日本での通名として佐藤(薩道)愛之助を名乗っていた記録が残る。University College London卒。1861年、イギリス外務省領事部門入省。1862年9月8日、イギリス駐日公使館の通訳生として来日。日本語の習得に力を注ぎ、1865年、通訳官に昇進。1866年3月から5月にかけて週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(於・横浜)にイギリスの対日政策をまとめた論文を匿名発表。後に『英国策論』として翻訳出版され大きな影響を与える。1868年、日本語書記官に昇進。複数の帰国と来日を挟み、その後、シャム駐在総領事代理(1884-1887)、ウルグアイ駐在領事(1889-1893)、モロッコ駐在領事(1893-1895)を歴任し、1895年7月28日、駐日特命全権公使として再来日。その後、1900年から1906年にかけて駐清公使として北京に滞在し、日本に立ち寄った後、イギリスへ帰国。1906年に枢密院顧問官を、1907年に第2回ハーグ平和会議英国代表次席公使を務めた。自身で直接体験した幕末から明治期の日本の社会や文化、地理や植物、神道やキリスト教伝来など幅広く研究し、欧州における日本学の確立にも貢献した。1895年にヴィクトリア女王よりSir(勲爵士)を、1908年にはエドワード国王からナイト・グランドクロス(Knight Grand Cross)を授与される。1929年、イギリスのOttery St Maryにて没(享年86)。
執筆/田中祐輔
筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、青山学院大学文学部准教授。主な著書に『文字・語彙・文法を学ぶための実践練習ノート』(編著・凡人社)、『上級日本語教材 日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、などがある。主な受賞に、2018年度日本語教育学会奨励賞、第32回大平正芳記念賞特別賞、2019年・2021年児童教育実践についての研究助成優秀賞、第14回キッズデザイン協議会会長賞、などがある。
*科学技術振興機構 researchmap:https://researchmap.jp/read0151200
*研究室: https://www.facebook.com/AGU.TANAKA.Lab
*1:アーネスト・サトウ(坂田清一訳:1960)『一外交官の見た明治維新』岩波書店、pp13-14
*2:アーネスト・サトウ(坂田清一訳:1960)『一外交官の見た明治維新』岩波書店、pp18-19
*3:アーネスト・サトウ(坂田清一訳:1960)『一外交官の見た明治維新』岩波書店、pp66-67
*4:アーネスト・サトウ(坂田清一訳:1960)『一外交官の見た明治維新』岩波書店、pp68-69
*5:建変萩原延壽(2001)『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄〈14〉離日』朝日新聞社、p29
*6:イアン・C. ラックストン著(長岡祥三・関口英男訳:2004)『アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より』雄松堂出版、p91
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