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中国からの留学生教育と松本亀次郎 ー“相知り相信ずる”親善の思想 ー

令和元年度に日本への留学生数は30万人を突破しました*1。そのうち最も多いのが中国からの留学生12万人で、日本の留学生総数の4割を占めます。人文科学、社会科学、理学、工学、農学、保健、家政、教育、芸術など幅広い分野で日々学んでいます。一方、2020年には、新型コロナウイルス感染症の拡大で、留学そのものが困難となる事態が訪れました。留学生数全体でも前年比32,617人減という調査開始以来経験したことのない厳しい状況となっています。

今回は、近代日本における中国からの留学生受け入れに日本語教育の立場から携わり、さまざまな困難への対処や取り組みで多大な功績を果たした松本亀次郎に着目し、その半生と考え、開発されたベストセラー日本語教材をご紹介します。(田中祐輔:青山学院大学文学部准教授)

掛川の秀才、教育の道へ

松本亀次郎は1866年に現在の静岡県掛川市に生まれました。同年、欧米の社会制度などを紹介した福沢諭吉の『西洋事情』が刊行され、翌年には15代将軍徳川慶喜の大政奉還を受け幕藩体制に代わる新政府が成立しています。日本が明治という新しい時代を迎えるまさに前夜でした。

早くから秀才の誉高く、論語や四書五経に親しみ、弱冠11歳で教師を補助し下級生を教える授業生という立場にあったほどです。1888年、静岡県尋常師範学校を卒業し、静岡高等小学校の訓導、今で言うところの教諭に任命されました。その後、静岡高等小学校東部分校主席訓導、静岡県有渡郡東有渡高等小学校校長兼訓導、静岡県榛原郡川崎尋常高等小学校校長などを歴任し、まだ20代ではありましたが着実に教育者としてのキャリアを築いていきました。

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日本語を捉え、日本語を教える

30代に入ると師範学校での教師生活が始まります。1897年、松本亀次郎は文部省中等教員検定試験に合格し、静岡大学の前身である静岡県尋常師範学校助教諭となります。その後、三重大学の前身である三重県師範学校教諭を経て、1900年に佐賀大学の前身である佐賀県師範学校教諭となります。ここで、『佐賀県方言辞典』の編纂に携わり、日本最初とされる方言辞典を完成させます。

本書の末尾には、方言研究が今で言うところの共通語の普及や教育に重要であると述べられているのですが「国語を外国に伝播し、或は我が国語を以て、異邦人を教育する」(p.155)というように、日本語を国外に伝え、外国の方々を日本語で教育することにも触れられています。松本亀次郎が後に取り組むことになる日本語を捉え体系的に解説する教材開発や、海外からの留学生への日本語教育、日本語で学ぶ環境創出のための学校設置、のルーツがこの方言辞典編纂に見られるのです。

さて、時を同じくして、東京では嘉納治五郎*2が清国からの留学生教育を開始します。留学ニーズは年々拡大し、1902年には留学生向け予備教育機関の弘文学院が設置されます。翌年、宏文学院と名が改められたこの学校では、日本語、歴史、算術、地理、理科、体操、幾何、代数、理化、動物、植物、修身などが教えられ、1909年の閉鎖までに4,000名近くが卒業したとされます。

1903年、松本亀次郎はこの宏文学院に招かれ、最初に担当したクラスで後に「中国近代文学の父」と称される魯迅こと周樹人と出会います。当時を次のように回想しています。

漢訳して教へなくても大体は日本語で同意語に言ひ換へて説明すれば分かる程度に進んで居たが或日助詞の に に漢字を充てる必要が生じ に は漢字の于又は於に当たると黒板に書いた處が、厲家福氏が于於と二字書くには及ばぬ。于でも於でも一字書けば同じだから宜しいと言ひ出した。(中略)その時魯迅が言を挿んで于於が何處でも全く同じだと言ふのではない。に に当たる場合が同音同義だからどちらでも一字書けば宜しいと言ふのですと説明した。それを聴いて僕は漢文字の使用法は本場の支那人と共に研究する必要の有る事をつくづく感じさせられた。〔松本亀次郎「隣邦留学生教育の回顧と将来」『教育』7(4),1939年,p.53〕*3

授業中に格助詞「に」を漢字の「于」または「於」に該当すると板書したところ、学生から、「于(yu)」「於(yu)」は意味が同じであったため一方のみ記載すればよいとの指摘がありました。これに対し魯迅は、中国語の「于」「於」は全く同じものというわけではないが、格助詞「に」に該当する意味で使われる場合においては同じであるため、この場合はどちらか一方でも良いのだと極めて厳密な見解を述べました。松本亀次郎は、この魯迅の名回答から、漢字の意味・用法は、中国の人々と共に研究する必要があると痛感したのです。

日本語教科書の開発と北京での日本語教育

宏文学院には、松本亀次郎をはじめ著名な教師たちが名を連ねていました。科目別では日本語科目の担当教員が最も多く、教師たちは日々熱心に教え、時に嘉納治五郎も交え侃侃諤諤の議論をしました。

一学科としては、日語の教師が、尤も多く、三矢重松、松本亀次郎、臼田壽恵吉、松下大三郎、唐木歌吉、門馬常次、小山左文二等十数名以上の人々があり、三矢氏が主任であった。これらの教師は毎月数回、夜、教員室に集合して日語教授の研究会を開き、嘉納先生も時々出席された。〔横山健堂『嘉納先生傳』講道館,1941年,p.187〕

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教室で教師たちが熱心に意見を交わす様子が目に浮かぶようです。こうした宏文学院における活動には松本亀次郎のこれまでの小学校や師範学校での教育経験と国語学への知見が存分に発揮されました。そして、彼のまとめた教案は『言文対照漢訳日本文典』(1904)と題した日本語教科書に結実します。

この教科書は品詞概説・文章概説・品詞小節の3編から構成されています。ページを開くと上段に日本語で例文や意味、解説が記され、下段にはその中国語訳が記されていることがわかります。非常に画期的な構成と内容のこの教科書は、中国人日本語学習者にとって非常に学びやすく、40刷という爆発的な売れ行きを記録します。
優れた教科書が生み出された背景には、松本亀次郎の徹底した現場主義ともいえる思想がありました。

日本語を教授するにも、しつくり彼等の要求に適応するやうでなくては駄目である。実際の教授にたづさはらない者が机上で書いた日本語の書物が何の役にも立たぬのは其の爲である。〔松本亀次郎「隣邦留学生教育の回顧と将来」『教育』7(4),1939年,p.52〕

学習者のニーズに即した日本語教育が大切であり、日本語教科書も、実際に教えてもいない者が開発しても学習者の役に立つものにはならないとはっきり主張されています。
松本亀次郎の宏文学院での教育活動や教科書開発は高く評価され、1908年には、北京大学の前身である京師法政学堂に招かれます。北京に戻っていた宏文学院の教え子たちからも歓迎され、文語文法などを四年間教えました。日本への帰国直前の1911年には辛亥革命にも遭遇します。後年記された回想録からは、緊迫した当時の状況が伝わってきます。

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然るに明治四十四年の十月十日革命軍が突如として武昌に勃発した。僕等日本人はその夜林ホテルに日本人会の秋季総会を開いてをったが、そこへ後ればせに青木宣純少将が出席せられて「今電報が入ったが武昌に軍隊の暴動が突発して総督瑞澂が外国船に逃げたといふ事であるが多分日本の船に逃げ込んだらしい」と云ふ話をされた。後で真相が分かって見ると軍艦楚豫に乗じ漢口の日本総領事館に投じたのであった〔松本亀次郎「隣邦留学生教育の回顧と将来」『教育』7(4),1939年,p.57〕

日華同人共立・東亜高等予備学校の設立

日本へ帰国した松本亀次郎は、現在の東京都立日比谷高等学校の前身である東京府立第一中学校教諭をしばらく務めたあと、1914年に私財と寄付を集め日華同人共立・東亜高等予備学校を創設し校長となります。同年、神田猿楽町五番地に設置されたこの学校は東京府知事より私立学校として認可されました。

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日本への中国からの留学生は先に述べた辛亥革命の影響で減ってはいましたが、東亜高等予備学校は人気を博します。1917年には後に中国国務院総理となる周恩来も入学し、その日記には「今日から、東亜に行き、毎日、四時間の授業に出る。午前二時間、午後二時間である。」(『周恩来『十九歳の東京日記』一月十七日,p.54)と、松本亀次郎の東亜高等予備学校で勉学に励んだ様子も記録されています。

時代の荒波と災害を乗り超えて

1923年、日本史上最大規模の地震とされる関東大震災が起こります。東亜高等予備学校も校舎が全焼し、在校生の死者も25名に達する極めて痛ましい災害に見舞われました。松本亀次郎は犠牲者を丁寧に弔い、被災留学生の支援と復興に向けた授業再開を決意します。地震勃発から学校再開までが次のように記録されています。

我が東亜高等予備学校の焼跡を訪ヘば、校地の外は唯鉄栅と石門が残つて居るのみで、さしも宏壮を誇った三階建五百三十餘坪の校舎及住宅は全部白灰と成り、玻璃は溶けて膠の如く、鉄柱は曲り護謨管の如くになって倒れて居るのを見ては、如何に火力の強かつたかといふことが想像され、惆悵として去るに忍びなかったことが数刻であった。(中略)復興の第一着手として、事務所兼教場を、中猿楽町の焼跡に建てる事に決した。其の焼瓦や灰燼は人手を借りず、牧野事務員、栗原小使等自身、畚に載せて校外に運び出し、校地の周囲には、杭を打ち、鉄条を張りて、境界を正し、十月五日には、早くも仮校舎が出来上つたから、予は此処に移住し、十日から授業を開始した。震災後僅に四十日で、小規模ながら、自力で建てた校舎で、授業を開始し、復興の産声を揚げたのは、痛快であった。〔松本亀次郎『中華留学生教育小史』1931年,pp.56-57〕

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自分たちの手で瓦礫を撤去し、たった40日で仮校舎での授業を再開する驚異的な復興を遂げた東亜高等予備学校は、写真にも写る松本亀次郎ら教職員と学生たちとの強固な団結と信念を体現しているようにも思えます。外務大臣に復興資金の補助を陳情し三万円が下付され、翌年、校舎再建が叶います。そして、1925年、東亜高等予備学校は日華学会に譲渡され松本亀次郎は教頭となりました。59歳、還暦の一歩手前を迎えていました。

「相知り、相信ずる」親善の思想

松本亀次郎が活躍した明治・大正・昭和という時代は、世界各地で戦乱が起きた時代でした。日本も例外ではなく、様々な困難も生じ、中国とも難しい関係になった時期があります。そのため、国内では必ずしも中国からの留学生を歓迎するムードばかりではなく、差別や迫害がなされることもあり関係者等は心を痛めました。
そうした中、松本亀次郎は、「予は原来熱心な親善論者」(松本1931:3)と、明確に自身のスタンスを貫き、日本語教育活動を地道に続けました。そして、「最近三十余年間、日本に於て、民国留学生を教育した事は、何萬或は何十萬であるか分らない」(松本1931:103)と記すほど多くの人材を育てました。
1930年、松本亀次郎は外務省と文部省の補助により中国教育事情視察に出かけました。その経験をまとめた文章では次のように語られています。

重ねて言ふが、真の提携は相知り相信ずる者の間にのみ行はるべきもので、其の点に就いては、両国家相互の関係も、個人相互の交際と、毫も変りが無い筈だ。〔松本亀次郎「中華教育視察紀要」,1931年,p.125〕

人と人、そして国と国との交流や関係もまた互いを知り互いを信じ合う中で実現するという考えは、今の国際社会においても通じる交流と関係構築の本質を私たちに投げかけているように思われます。そして、復興や親善に心血を注いだその歩みは、私たちに災害や困難な情勢にも挫けずに一歩一歩手を携えて進む大切さを伝えているようにも思います。
1940年、松本亀次郎は、中国人留学生教育に関する長年にわたる功績に対し、外務大臣より表彰状と木杯を受けました。そして、1945年9月12日、終戦を見届けるようにして大東町の生家で息を引き取りました。79歳でした。

話はまだ展開します。没後四十年の1985年、大東町が生家跡に記念公園を建設し、翌年には井上靖揮毫のレリーフ「中国人留学生教育に生涯を捧げた人」が建立されました。1998年には千代田区と千代田区日中友好協会の協力で「周恩来ここに学ぶ 東亜高等予備学校跡」と刻まれた記念碑が東亜高等予備学校跡地の千代田区立愛全公園に建立されました。2019年、天津市の周恩来鄧穎超記念館より周恩来元総理と松本亀次郎のろう人形が掛川市に寄贈され大東図書館に設置されました。2021年には松本亀次郎記念日中友好国際交流の会(会長は鷲山恭彦元東京学芸大学長)により中国からの留学生教育への多大な功績を記念する「鶴峯堂*4」が生家跡に建築されました。
疫病や災害が深刻化する現代において、松本亀次郎の功績や、そこから放たれる示唆はさらに輝きを増しているのです。

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謝辞
記事の作成にあたり、静岡県掛川市立大東図書館、神奈川県立図書館、株式会社冬至書房のみなさまに資料提供のご協力をいただきました。また、調査にあたっては、掛川市日中友好協会元会長鈴木嘉弘様に多くをご教示いただきました。ここに記して感謝申し上げます。

松本亀次郎(まつもと・かめじろう)

1866年、土方村嶺向生まれ。明治・大正・昭和にかけて中国からの留学生への日本語教育に従事し、『言文対照・漢訳日本文典』をはじめ広く使用された日本語教科書開発や学校設立に寄与し多くの人材を育てた。教え子には、中華人民共和国国務院元総理の周恩来や、中国近代文学の父と称される魯迅などがいる。1888年、静岡県尋常師範学校を卒業、静岡高等小学校訓導、静岡高等小学校東部分校主席訓導、静岡県有渡郡有渡高等小学校訓導兼校長、静岡県榛原郡川崎尋常高等小学校校長などを歴任し、さらに、静岡県尋常師範学校や三重県師範学校、佐賀県師範学校などで教鞭を執った。1903年、嘉納治五郎の宏文学院に招かれ中国からの留学生教育を開始。1908年、現在の北京大学の前身である京師法政学堂に招かれ四年にわたり日本語教育に従事。1914年、私財と寄付により日華同人共立・東亜高等予備学校を創立し校長となる。1925年、東亜高等予備学校を日華学会に譲渡し教頭となる。1930年、外務省・文部省の補助で中国視察。『中華五十日游記』を著し政界などからも反響がある。1940年、中国人留学生教育への功績に対し外務大臣より表彰を受ける。1945年、土方村にて没(享年79歳)。

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執筆/田中祐輔

筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、青山学院大学文学部准教授。主な著書に『令和3年度日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『文字・語彙・文法を学ぶための実践練習ノート』(編著・凡人社)、『上級日本語教材 日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、などがある。主な受賞に、2018年度日本語教育学会奨励賞、第32回大平正芳記念賞特別賞、第13回児童教育実践についての研究助成優秀賞、第14回キッズデザイン協議会会長賞、などがある。


※科学技術振興機構 researchmap:https://researchmap.jp/read0151200/
※研究室:https://www.facebook.com/AGU.TANAKA.Lab/

*1:独立行政法人日本学生支援機構(2020)『令和元年度外国人留学生在籍状況調査結果』,p.4

*2:嘉納治五郎(かのう じごろう):1860年、現在の兵庫県神戸市東灘区御影町生まれ。1875年、官立外国語学校卒業後官立開成学校入学。1881年、東京大学文学部政治学及び理財学を卒業。学習院教頭、高等師範学校長、第五高等中学校長、第一高等中学校長、東京高等師範学校長、文部省参事官、宮内省御用掛、文部大臣官房図書課長、文部省普通学務局長、講道館館長、IOC委員、大日本体育協会初代会長、貴族院議員などを歴任。日本の教育の発展を牽引し、体育とスポーツの普及振興にも尽力した。また、留学生教育やオリンピックへの参加と招致にも力を注ぎ、国際文化交流を推進した。勲一等旭日大綬章受章。1938年没。

*3:本記事における史料引用では、読みやすさに配慮し、必要に応じて旧字体を新字体に改めるなど表記上の調整を行なった。変更の必要がないと判断されたものは原文ままとした。(以下、同様)

*4:「鶴峯(かくほう)」という名称は、松本亀次郎が号とし生涯1,000を超える和歌や漢詩を詠んだことに因んだもの。これは、幼少期に、地元の鶴翁山(高天神山)にある高天神社で『論語』を学んだことに由来することを孫の松本洋一郎氏が自著『珈琲を飲みながら–円い地球の表と裏を旅した商社マン』(2006・露満堂)に記している。

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