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日本語教師プロファイル村上吉文さんー地球上にはまだ見ぬ世界がたくさんある!

今回「日本語教師プロファイル」にご登場いただくのは、国際交流基金上級専門家であり、日本語教育コンサルタント、冒険家としてもおなじみの村上吉文さんです。日本語教師になったきっかけや、海外での長い活動、そして現在取り組まれている日本語教師のネットワーク作りなど様々なお話を伺いました。現在はインド南部バンガロールに赴任中のため、ZOOMを使った1時間ほどのインタビュー中、シーリングファンの回るお部屋からは、時折現地の電車の音などが聞こえてきました。

自分の強みは日本語ネイティブであることに気づいた20歳の頃

――日本語教師になろうと思ったのはどうしてでしょうか。

高校生の時から英語が好きで英語で仕事をしたいと思っていました。それで大学1年生を終えた後、休学してワーキングホリデーでカナダへ行きました。でも、当たり前のことですが、カナダではホームレスの人でも僕より英語が話せるわけで、専門性がないまま英語だけ話せますと言っても食っていけないなと感じました。当時のカナダは既に多民族国家で移民が多かったのですが、日本もそう遠くない将来、僕の人生のうちにはこのような状況になるのではないか。そしてグローバルな競争に巻き込まれていくだろうと予想されました。そんな中、自分が優位に立てるのは日本語がネイティブであるという点だけだと、その当時20歳の僕は考えたんですね。自分が日本語ネイティブであることを強みにできる仕事といったら日本語教師だと気づきました。(今では日本語を教えるのにネイティブの方がいいとは必ずしも思っていませんが)それで帰国して復学し、日本語教師を目指し始めました。

また高校生の頃から青年海外協力隊に行きたいという希望があって、説明会に参加していました。協力隊の職種に日本語教師があったのも、日本語教師を目指したきっかけの一つだったと思います。

大学生になってから2度受験しましたが、未経験のため不合格でした。

大学を卒業後、しばらくは地元の埼玉県にある日本語学校で教えました。そこで経験を得て、ようやく青年海外協力隊に合格し、1992年にモンゴルに派遣されることになりました。

協力隊、そして基金専門家として海外へ

――モンゴルはいかがでしたか。

考えていたのと全然違いました。日本国内では主に成人の中国人に教えていて、子どもを教えた経験はなかったのですが、モンゴルで赴任したのは10年制の学校でした。小学生から中学生ぐらいの年代に教えることになったわけです。ただエリート校であったことや、モンゴル語が日本語に近いこともあって習得は早かったです。モンゴルに3年滞在し、日本に戻ってから協力隊の積立金*1を利用して大学院に進学しました。ところが、そこで修論のトピックを決めるのに苦労したんです。何か問題意識があれば修論のテーマにできるんですが、お話ししたようにモンゴルでは日本語を教えるという面ではあまり苦労しなかったので。修士が取れないまま卒業見込みということで今度は国際交流基金の専門家に応募してサウジアラビアに行くことになりました。1997年のことです。

サウジアラビアでは男子ばかりの大学で教えました。ここで一番苦労したのは学習ニーズがないことでした。当時はインターネットもなく日本のことを何も知らないわけです。こんなに学習ニーズがないところで日本語を教える意味って何なんだろうと考え、結局それが日本に戻ってから修論のテーマになりました。

その後、今度は国際交流基金の専門家としてモンゴルに派遣され、4年以上いました。だから僕の中ではモンゴルが一番長いんですね。言葉も英語の次に使えるのがモンゴル語です。この間に結婚して子供が生まれました。その後、日本に戻りしばらく非常勤講師として働いていました。

――この頃、アルクから『しごとの日本語 IT業務編』も出されていますね。

はい。これは僕からアルクに売り込みにいったんです。内容はモンゴルの日本センターでITエンジニア向けに行っていた日本語研修を基にしました。

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毎回試験を受けて、派遣される

――それから、また海外へ?

ええ、次はベトナムのハノイにあるJICAの出張所に派遣されました。こちらは延長がなく2年で終わり、その後はエジプトへ。初めて国際交流基金のセンターに入って仕事をしました。ここは広域事務所で、一つの国だけでなく地域全体を担当するので東はイランから西はモロッコまで7000㎞をカバーしていました。

――仕事内容はどういったものでしょうか。

基本的には教師研修ですが、日本語学習者向けにオンラインの授業もやりましたね。初級を終えた後の学習機会が全然ないという人もいたので、中級の授業をオリジナルコースで。ゲストの日本人の方に前半は僕がインタビューをして、それを聞いてもらい、後半は学習者にインタビューしてもらうというものです。いろいろな日本人にオンラインで直接触れるコースでした。

エジプトでの任期が終わる3か月ほど前、クーデターが起きました。授業中に事務所の近くで警官隊とデモ隊の衝突が起き、催涙ガスが充満しました。催涙ガスって涙が出るだけでなく呼吸もできないんです。これはもしかしてダメかもと一瞬思いました。基金の関係者全員で緊急退避しましたが、結局エジプトへは戻れませんでした。

――大変な経験をされたんですね。

それから国際交流基金でハンガリーのブダペストへ。こちらはエジプトと同じく広域事務所で中東欧を担当しました。その後はカナダ・アルバータ州の教育省で仕事をしました。ここは日本人は僕一人で仕事も全部英語でした。内容は日本語教師研修やスピーチコンテストの企画等です。そして現在はインドのバンガロールに派遣されています。実はコロナ禍で赴任が1年3か月遅れてしまい、その間は日本からオンラインで研修を行っていました。

――キャリアのほとんどを海外で過ごされているわけですが、それには何か動機やお考えがあるのでしょうか。

うーん。単純に行きたいから行く!というだけです。地球上にまだ見ぬ世界がたくさんあるわけですから。全然知らない場所、全然知らない文化に身を置けるというのは楽ではないけれど面白いです。自分自身が飽きっぽいというのもありますし、安定したら腐るタイプの人間だと思っているので。2年か3年で、毎回試験を受けないと続けられない仕事というのが僕には合っているんです。

もう学校も先生もいらない!?

――2018年には『 SNSで外国語をマスターする《冒険家メソッド》』(ココ出版)という著書を上梓されていますが、この冒険家メソッドはどのようにして生まれたのでしょうか。

僕自身がいろいろなところに派遣され現地の言葉を学んできているので、自分の語学学習を自分でデザインするのは日常的なことなんですね。ベトナムにいた頃、Yahoo系のSNSがあって、そこに入ってみたらすごく面白かった。教科書とは違う生のベトナム語がそこにありました。ソーシャルメディアにいる人たちのベトナム語を解読していくのがとても面白いことに気づいたんです。

それからエジプトにいた時、サウジアラビアに呼ばれて、「独習する方法をレクチャーしてほしい」と依頼されました。そこで、インターネットを使うといいという話をし、初めて「これは冒険なんだ」と、「冒険」という言葉を使いました。

それから2013年は冒険家メソッドにとってはすごい年でした。海外の日本語スピーチコンテストで、それまでは大体エリート校の学習者が優勝をしていましたが、その年、独習者が一斉に優勝をさらっていったんです。その年を境にすごい何かが起きていると感じました。

――独習者の方々にインタビューもされていますね。

学校に通わず、独学で日本語をマスターした人(=冒険家)30人にインタビューをし、その動画もSNSにアップしました。30人ほど話を聞くと大体のパターンが見えてくるんです。

つながりを作ることで解決方法が見つかる

――村上先生と言えば「ZOOMでハナキン」や「日本語教師チャット」等でも有名なのですが、なぜこれらの活動をしようと思い立ったのでしょうか。

最初にモンゴルに行って帰ってきた時のことです。モンゴルでは子ども向けにインフォメーションギャップを入れてコミュニカティブな教材を苦労して作ったんですが、日本に帰ったら既にそんな教材は市販されていました。しかも僕が作ったものよりもいいものが。全然知りませんでした。その経験から、孤立しているとダメだと思ったんです。

現在は毎週金曜日の夜にZOOMで集まる「ZOOMでハナキン」、Twitterでは毎月第4土曜日の「日本語教師チャット」、第2土曜日の「日本語教師ウォッチパーティー」の他、日本語教師ブッククラブも実施しています。

これらに関して僕自身は何もコンテンツは作らず、皆さんに提案してもらい、選んでもらうというやり方です。「ZOOMでハナキン」は2022年4月に3年目に入り述べ1万人の方に参加していただきました。参加者の国も毎回20か国以上になります。

――これらの活動の原動力は?

基本的には楽しいからです。そしてつながることで解決できる問題もたくさんあります。僕自身が一番多く参加していますから、一番得をしているんじゃないですか?(笑い)

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これからやりたいこと、伝えたいこと

――これからやっていきたいことは何かありますか。

技術的なことでいうとVRですね。僕は毎日1時間ほどVRを使っているので、もうVRの人だと思いますが、もうちょっと日本語教育関係者を引き込みたいと思っています。VRの中に教師や学習者のネットワークを作りたいです。

――これから日本語教師になりたい人、まだ経験が浅い人に向けて何か伝えたいことがありましたらお願いします。

コロナ禍の前だったらICTの知識を身につけてくださいということでしたが、この2年でだいぶ皆さんの視界が開けてきました。ですから今は逆に第二言語習得などの基本的な理論をちゃんと勉強してくださいということですかね。

あとはソーシャルメディアを使ってください。特にTwitterをやりましょう。

取材を終えて

村上先生は国際交流基金の仕事として、行動中心アプローチを使った教師研修も行っていますし、Twitterのspaceの配信、「むらログ」というブログも書いています。いくつ体があっても足りないんじゃないかと心配されるほどです。インタビュー中、「僕のことを高潔な人間だと誤解している人がいて困る。本当は自己中心的な人間なんです」とおっしゃっていましたが、村上先生に新しいつながりを作ってもらった人、新しい扉を開いてもらった人、多いんじゃないかなあと思います。

村上吉文さんのSNS:https://twitter.com/Midogonpapa

取材・執筆:仲山淳子

流通業界で働いた後、日本語教師となって約30年。6年前よりフリーランス教師として活動。

★文中に出てきた村上吉文さんの著書はこちらから

*1:積立金:海外協力隊員への本邦支出対応手当。派遣時、無給休職または無職の隊員に、国内で支出が必要な経費等に役立てるため現地生活費とは別に支給される手当。

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