日本語を学ぶ目的やペースは人によってさまざまです。中には、自分の意志とは関係なく日本語を習得する必要に迫られる人たちもいます。例えば、家族の仕事などの都合で来日した子どもたちです。滞在が中長期にわたる場合、学校の定期テストや入学試験、就職活動をこなすほどの日本語力を、かなりの短期間で習得しなければなりません。今回ご紹介する教材は、そのような状況にある中学生の日本語学習者たちに寄り添う現場から生み出されたものです。
日本語を学ぶ中学生が、本来の力を存分に発揮するために
『中学生のにほんご〜外国につながりのある生徒のための日本語』(スリーエーネットワーク)は、日本語の支援を受ける中学学齢期の生徒を対象とした日本語の総合教科書です。
初級の日本語から、教科学習につながる日本語を理解するまでのステップを3段階に分類。2019年5月に<ステップ1:学校生活編>が、同年11月に<ステップ2:社会生活編>が出版されました。
「画像提供:スリーエーネットワーク」
今回取材に対応してくださった著者の一人である志賀玲子さんは、教材開発の背景を次のように語っています。
「これまで中学生に特化した市販の総合教科書はほとんどなく、小学生や成人向けの教材を使うのが一般的だった中学の日本語教育現場。通常の学校生活の中で、日本語学習に十分な時間が確保できず、教科学習が思うように進まないというジレンマがありました。
例えば、『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)は多くの日本語学校で使われていますが、毎日4時間ほど日本語を学習する留学生が、4〜6ヶ月かけて終えるほどの内容となっています。
日本語学習に十分な時間がとれない中で、初級と位置づけられている文型をすべてマスターし、さらに国語や数学、理科、社会の教科書を読めるほどの日本語力(学習言語)を習得するのは、現実的ではありません。
最大の課題は、本来理解力や学習意欲があるにも関わらず、日本語の力不足が原因で自分の力を存分に発揮できずにいる中学生が、全国各地にいるという事実です。
それぞれの現場では、日本語指導員や通訳など様々な支援者・団体が懸命にサポートしているものの、使用する教材が違うと、複数の日本語支援者が学習の進捗状況を共有するのが難しく、効果的なサポートが困難になるという課題もあります。
生活に必要な日本語が使えるだけでは、高校受験を経て学業を続けていくことは厳しいと言わざるを得ません。そこで、日本語母語話者と同等に教科を学べるようになることを目標とした、体系的な日本語教科書の開発プロジェクトが立ち上がりました。」
教科学習に必要な日本語を最短で学べるよう文型を厳選
2017年秋と2019年秋の日本語教育学会にて、本教材の開発過程等について発表した(写真は2019年秋)。
教材開発にあたっては、学術研究と学習支援の両サイドから経験豊富なメンバーが集結。庵功雄教授(一橋大学)監修のもと、実践研究に励む志村ゆかりさんを中心者に、作業が進められていきました。*1
「横浜市立中学の国際学級にご協力を頂き、2015年秋から約2年間、中学生たちの反応を見ながら修正を重ねました」。
<ステップ1:学校生活編>は、中学校や日本での日常生活に溶け込む会話力を身につけることが最大のねらい。中学生にとって身近な会話文を中心に構成されています。「日本語による日本語の説明」はなるべく避け、イラストと文脈だけで理解できるように場面を提示してあります。
「一見すると通常の文型シラバスにもとづいた教科書のように見えますが、単純に言葉を入れ替えるパターンプラクティスではなく、豊富なイラストから文脈をつかんで書く・話すという構成にしてあります。いきなり語彙や文型を教えるのではなく、まず会話文をざっと読んで、大枠をつかむのが理想です。また、学習者自身が会話文の登場人物の一人になれるよう、「あなた」という欄を設けて、学習者が自分のことを語る演習も全編に盛り込んでいます」。
編集する上で最優先したのは、「中学生が、すんなりと理解できるかどうか」。体系的に日本語を習得していけるよう、学術的な根拠は踏まえつつも、文法の細かい定義や分類などにとらわれすぎて中学生が混乱しないよう、掲載内容はシンプルに留めています。
<ステップ2:社会生活編>は、各教科の教科書を読んで理解できるようにするため、その前段階として、身近な社会に興味を広げることが最大のねらい。ステップ1とは違って、必ずしもアウトプット(産出)できるようになることまでは目指していません。
「〜を中心に」「〜向けの」「〜という〇〇」など抽象的な表現を理解し、教科書の後半では、「である調」による社会問題についての文章も読むようになっています。ポップカルチャー、ゆるキャラなどの親しみやすいものから、環境問題まで、中学生が興味を持ちそうな話題や、知っておいたほうがよいトピックスを厳選したそうです。
さらに、ステップ1・2とも、教科書と平行して使える練習シートや言葉リストをウェブサイトからダウンロードして、自律的に学習できるように工夫されています。
学校の定期試験に取り組む姿勢が一変したという声も
当初は「難しすぎるのでは」という慎重な見方もありましたが、実際に使った現場からは「予想以上に理解できた」「定期試験に取り組む姿勢が変わった」「もっとやってみたいと学生たちが意欲を見せてくれている」など、驚きの声が届いているのだそう。
学んだ文型を使ってジョークを言うなど、コミュニケーションを積極的に楽しもうとする中学生も出てきているそうです。
「子どもたちには多様な可能性があり、大人が考える以上に潜在能力がある。自分らしく挑戦するチャンスや意欲を持てるような学習環境を整え、誰もが正当に評価される社会をめざしたい」という編著者の志村ゆかりさんの理念が、現実の姿として現れています。
現在作成中の<ステップ3:教科学習編>は、教科書本文から必要な情報を自分でつかみ、理解し、思考することができるよう、各教科の専門家を交えて検討が重ねられています。
「教材は、学習者をより広い世界に導くためのツールと言えるでしょうか。教材をきっかけに新しいことへの探究心が芽生えたり、周囲の人とのコミュニケーションが促進されたり……。決して学習者を枠にはめるものではなく、学習者が飛び立つための後押しをするものだと思っています。また、主体的に学習を進めていく上ではペースメーカーとしての役割もあります。ときには教材に寄りかかり、ときには教材からの自立を模索しながら、興味や視野を広げていっていただけたらと願っています」。
多様性を積極的に受け入れる社会へと成熟していくために、少数の日本語学習者に徹して寄り添った『中学生のにほんご』シリーズ。この教材を活用しながら、未来に向かって、胸を張って生きてほしいとの願いが込められています。
志賀玲子(しが・れいこ)
東京経済大学特任講師。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。専門は日本語教育、協働学習、異文化間教育。大学において、留学生対象の授業のほか、一般学生向けの文章表現、日本語教授法等を担当。日本語教師養成講座にも携わる。留学生、日本の学生、日本の社会人等と接する中で、「受け入れ社会側の姿勢」に問題意識をもつようになる。目下の興味・研究テーマは「多様性の受容」。
主な著書:
『「やさしい日本語」表現事典』(2020, 丸善出版/庵功雄〔編著〕志賀玲子,志村ゆかり,宮部真由美,岡典栄〔著〕)
『どうすれば協働学習がうまくいくか―失敗から学ぶピア・リーティング授業の科学―』(2018,ココ出版/石黒圭[編著]胡方方,志賀玲子,田中啓行,布施悠子,楊秀娥[著],)
『多文化社会で多様性を考えるワークブック』(2018, 研究社/有田佳代子,志賀玲子,渋谷実希〔編著〕 新井久容,新城直樹,山本冴里〔著〕)
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