ヨーロッパの中でもっとも母語話者が多く、14カ国以上で話されているロシア語。文字も文法も日本語とは一見かけ離れているように思えますが、ロシアにおける日本語教育は、じつに300年以上もの深い歴史があります。ロシア語話者が日本語の魅力を堪能し、言葉の壁を越える喜びを味わえるようになるには、どのような日本語学習が望ましいのでしょう。1985年、張りつめた冷戦下のモスクワ国立大学でロシア語を学んだ数少ない交換留学生の一人として、納得と共感を生む通訳の使命の深さを胸に刻み、信頼と実績を重ねてきた通訳者の竪山洋子さんに、お話を聞きました。
歌うように言葉を紡ぐ。詩人が生んだ現代ロシア語
ロシア語話者にとって日本語がどのような言語であるか考える前に、まずは母語であるロシア語の特徴をご紹介いたしましょう。
ロシア語の魅力は、なんと言っても音の美しさです。メロディックなイントネーションと、巧緻を極めたリズミカルな韻律が、時に甘く美しく、時に力強く、まるで音楽のように魂を揺さぶります。
К Керн*
Я помню чудное мгновенье:
Передо мной явилась ты,
Как мимолетное виденье,
Как гений чистой красоты.
アンナ・ケルンに
わすれがたない、あの奇しきひと時よ
きみがつかのまのまぼろしのように
清らかな美の精霊のように
私のまえに現れたときよ
『プーシキン詩集』(岩波文庫 金子幸彦著)より引用
また、随所に散りばめられたメタファー(一つの言葉で、二重三重の意味を連想させる隠喩)もロシア語らしさの一つです。ダジャレやごろ合わせなどの言葉遊びは、ロシア語の醍醐味と言えるでしょう。ピリッとした風刺や、人間の本質を問う哲学的な表現も好まれます。
【Он идёт】
「彼は歩く」という意味ですが、Работа идёт 「仕事がうまくいっている」、Дождь идёт「雨が降っている」という表現でも使います。
【Мысль вылетила из головы.】
直訳すると「考えが頭から飛び出てしまった」ですが、つまりは「思っていたことを忘れた」ということ。他に、Сомолет вылетил во время.「飛行機が時間どおり飛び立った」という使い方もします。
【Я намотал себе на ус.】
もし「私は髭に糸を巻き付けた」と直訳したら、クスッと笑われてしまう慣用句。本当の意味は「記憶に留めておく」です。Я намотала на катушку ниток.「糸巻き車に糸を巻く」。
このように、奥行きのある多彩な表現ができる現代ロシア語の基礎を築いたのが、19世紀の詩人アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)です。
プーシキンはモスクワの貴族の家に生まれました。乳母から枕元で聞いた民話を元に貴族言語と民衆言語をバランスよく融合させ、薫り高く、だれにでも分かりやすい生き生きとした文学作品を数多く生み出しました。プーシキンの詩を暗唱できないロシア人はいないと断言できるほど、今なお広く愛されています。
プーシキンは「ロシア語の父」として広く愛され、語り継がれている。
絵本『どのようにしてプーシキンはロシア語を変えたのか』
(マリーナ・ウルィブィシェワ著。2015年, ナースチャとニキータ社)
芸術文化への造詣が幾重にも深いロシアの人々
1930年代から1970年代には、ソヴィエト政権に表現の自由を禁じられ、作家や芸術家が厳しく弾圧された時代もありましたが、人々は検閲の目をかいくぐり、命がけで芸術文化を守り抜いてきました。ロシアの人々にとって、芸術文化はそれだけの価値があるのです。
※「アネクドート」という自虐的な笑いを交えた政治風刺の小噺は、その頃に生まれました。「辛いことはジョークにして笑い飛ばす」という習慣が定着しているため、冗談のつもりが、日本人に真面目に受け取られて、誤解されてしまうこともしばしばあるようです。
ロシアでは、夏目漱石、芥川龍之介、三島由紀夫、安部公房、吉本ばなな、村上春樹など、日本文学が数多く翻訳され、多くの人々に熱心に読まれています。松尾芭蕉などの俳句は、私が留学していた1980年代から人気でした。日本語を学んでいるロシア語話者の人たちはよく、「日本語は音楽のようで美しい」と言いますが、五七五の俳句に惹かれるのも、言葉の音楽性を大切にするロシア語話者ならではかも知れませんね。
文学のみならず茶道、生け花、歌舞伎、空手や柔道などの武道などに対する関心も非常に高く、日本人以上に伝統文化に精通した日本語研究者は珍しくありません。このような学びの姿勢には本当に敬服します。
私は、通訳者をめざす若い人たちに「バイリンガルではなく、バイカルチャーになってください」と日ごろから伝えています。文化や歴史、そして社会の背景を理解していないと、発言者のロジックが理解できないからです。ロシア語にも、ただ単に言葉の表層を読むだけでは決してたどり着けない、奥深い心があります。
言葉を理解するとは、人間を理解すること。言葉の壁を越えるには、語学力と背景知識の両輪が必要です。ロシア語話者の、日本の芸術文化に対する深い関心は、日本語を学ぶ上で大きなモチベーションになるはずです。
要約と精読の徹底した訓練が、コアメッセージを理解する力に
それでは、語学力を磨くには、具体的にどのような訓練が効果的なのでしょう。
ロシア語同時通訳者の故・米原万里さんは、チェコスロバキアのソヴィエト学校に通い始めた小学生のころ(1959年)、図書館で本を返却するたび、司書の先生に内容を説明させられたそうです。
ソ連時代にソ連国内で学ぶ留学生たちが使っていたロシア語の教科書も、初級文法をマスターしたら、後はひたすら読む、読む、読む訓練......。最後は必ず「文章の内容をどのように読んだか」を問われます。知っている単語を駆使して、必死に感想をまとめたものです。
ソ連時代のロシア語の教科書。(1983年, ロシア語出版社)
私が現在担当しているロシア語通訳のクラスでも、短い文章を題材に、要約と、コアメッセージ(一番伝えたいことは何か)を自分の言葉で言い換える訓練を執拗に繰り返します。
ロシアでは、このような訓練を小学生の段階から徹底的に受けるのが伝統的な学習スタイルですので、要約と精読のスキルが非常に高いです。要約や精読は上級者でないと難しいのではないかという不安を抱く方もいらっしゃるかもしれませんが、ロシア語話者に日本語の文章を音読して聞かせた後、内容を確認すると、それなりに自分の言葉で説明できます。
細かいパーツで精密に組み立てられたロシア語を、
すっきりとした自然な日本語に訳すには
ロシア語は表現がとても具体的で、名詞や動名詞が非常に多いのが特徴です。ロシア語から日本語に通訳する際、名詞をすべて名詞のまま置き換えると、ぎこちなく、つながりの悪い文章になってしまうので、言葉が重複しないように注意しながら、動詞や形容詞に適宜変換していくのがポイントです。
Атмосферными процессaми продолжает управлять область повышенного атмосферного давления.
【直訳】
大気の変化を、高気圧圏が制御し続けている。
【自然な日本語】
高気圧が、引き続き大気を安定させている。
解説:「続けている」という動詞を「引き続き」という副詞に置き換え、「変化を…制御」という部分は、コントロールしているという文脈から「安定」と意訳します。
Эпидемиологический метод - специфическая совокупность приемов и способов.
【直訳】
疫学的な方法とは、特殊な手法と手段の総体である。
【自然な日本語】
疫学の方法とは、特殊な手法や手段を組み合わせることである。
解説:совокупность(総体)という名詞を、語源が同じсовокупить(組み合わせる)という動詞に置き換えて読みます。
逆に、日本語からロシア語に訳す場合は、具体的な表現になるように言葉を補います。例えば、
私は自分で生きているのではない。周りに生かされているのだ。
という日本語の文章は、ロシアの語の感覚でそのまま読むと、生命維持装置に繋がれて、強制的に生かされているという感じのニュアンスになってしまいます。
そこで、ロシア語の文章にするときは、別の言葉に置き換えたり、説明不足なところを補うなどして、言葉どおりに読めば筋が通る文章にしていきます。
Питаюсь не собственной жизненной силой, а внушительными силами питают меня окружающие люди.
(自分自身の生命の力で自らを満たしているのではなく、大きな力で周囲の人たちが私を満たしてくれているのだ)
このほか、ロシア語話者によくあるケースとして、
Она учила меня в университете.
※英訳するとShe taught me at university.
という文章を、
彼女は私を大学で教えました。
と日本語訳してしまう場合があります。日本語では、
私は彼女に教わっていました。
というように、能動態ではなく受動態で表現するのが自然ですね。日本語とロシア語では、能動態と受動態の感覚が違うようです。
また、「〜させていただく」などの謙譲語について、「自分の行為なのに、なぜ『〜させる』という使役表現を使うのか?」と首をかしげるロシア語話者は多いです。日本語文法の根拠となるロジックが見えないといったところでしょうか。
私自身、日本語を教える機会もあるのですが、ロジックを重んじるロシア語話者を納得させるには、一筋縄ではいきません。誰の視点から誰に向かって、使役表現や謙譲語が使われているのか。心理的な背景も含めて、細かく細かく分解して説明すると、ようやく納得してくれます。
他にも例を挙げればキリがありませんが、いずれにしても、ロシア語話者が、日本語の世界へと安心して足を踏み入れるには、「論理的に納得できるかどうか」が一つの大きなポイントになると言えそうです。
ロシアの日本語学習者の皆さん!日本語を学ぶ決心をしてくださったことに、心から感謝と敬意を表します。
Какой богатый язык - русский! (なんと豊かな言葉かな、ロシア語は!)というフレーズを、私は何度も聞いてきました。日本語も美しい響きを誇り、豊かな表現力を持つ言語です。その美しさの真骨頂は、やはり皆さんが一番難しく感じる敬語かもしれません。でも、私たちロシア語学習者が少しずつロシア語の深い懐に抱かれていくように、皆さんも日本語の深淵を探求していってください。
そして、尊敬する日本語教師の皆さん!直接教授法で言葉を教えることの達人である皆さんに心より敬意を表します。大和言葉の美しい響きが世界中に鳴りわたり、世界平和の礎になるように、ご活躍を心よりお祈りします。
竪山洋子(たてやま・ようこ)
高校時代からロシア語やロシア文化に興味を持ち、創価大学英文学科在学中に、校内選抜試験に合格し交換留学生としてソ連国立モスクワ大学に留学。1年間留学生学科においてロシア語文法・発音教程・露作文等を学ぶ。大学卒業後、ロシア関連商社、ソ連国営タス通信東京支局勤務を経て、フリーランスの通訳者、ロシア語講師となる。研修通訳を中心に、外務省、JICA、民間企業まで、多くの通訳現場を経験。日本語話者ならではのロシア語文法解説、発音・イントネーション指導には定評がある。翻訳書に『妖精たちがみた不思議な人間世界』(2017年マール社)がある。
また、日露ゲーム翻訳「False Vows,True Love~in a night full of lies~(偽りの契り)」も手掛ける。
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