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分け隔てなくともにー近代留学生教育と嘉納治五郎ー

NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では、日本が初参加した1912年のストックホルムオリンピックから1964年の東京オリンピックまでの半世紀にわたる日本オリンピックムーブメントの歩みが色彩豊かに描かれました。主人公は日本マラソンの父と称される金栗四三と、東京オリンピック実現に重要な役割を果たした田畑政治ですが、二人に負けない存在感を放っていたのが嘉納治五郎です。

東京高等師範学校長、文部省普通学務局長などを歴任し日本の教育の発展を担うとともに、講道館創設やIOC委員としての活動から柔道と体育の父とも呼ばれる嘉納治五郎ですが、留学生への日本語教育とも深い関わりを持つ人物です。今回は、嘉納治五郎の留学生教育とその考えに着目します。(田中祐輔:東洋大学准教授)

教えることの道へ

嘉納治五郎が留学生教育に携わることになったのは弱冠36歳のころです。この時点ですでに多くの重要な仕事をしています。留学生教育の話を進める前に、そこにいたる道程をまずは見てみましょう。

嘉納治五郎は今から160年前の1860年、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影)に嘉納次郎作の三男として生まれました。10歳になると上京し父と暮らしはじめます。成達書塾で書を、三叉学舎で英語を、育英義塾で英語やドイツ語、数学などを学び、14歳で官立外国語学校に入学します。翌年、官立外国語学校を卒業し、官立開成学校へ進学、1881年に東京大学を卒業しました。22歳で学習院の教員となり専門である政治学及び理財学を教えます。東京大学の学友たちが続々と官庁に就職する中、教育の道へ進んだ心境が後に以下のように語られています。

人に物を教えるということが一種の楽しみであったのである。そういう天分からでもあろうとおもうが、自分は大学で政治・理財科を卒業したのであるから、当時の時勢からいうと、当然どこかの官庁に奉職でもしようというのであるのに、自分はそれを好まなかった。自分の親の友達などは、大蔵省へ世話をするから、そこへいくようにとすすめてくれた。しかし、自分は従わなかった。〔講道館文化會『作興』第八巻第一号・1929年(『嘉納治五郎大系第十巻』p.196〕

学習院で教鞭を執るかたわら周囲に請われ嘉納塾を創立、書生を受け入れます。さらに次の月には英語や文学を指導する弘文館を、さらに二ヶ月後には後に世界柔道の総本山となる講道館を創設します。

29歳を迎える1889年には、世界視察のためにヨーロッパに派遣されます。16ヶ月に及んだこの外遊では、まず上海経由でパリ、ベルリンを訪問し、1890年にはウィーン、コペンハーゲン、ストックホルム、アムステルダム、ロンドンを訪れます。1891年にカイロ経由で帰国した嘉納治五郎は、外交官で漢学者の竹添進一郎の娘須磨子と結婚。その後、第五高等中学校(現・熊本大学)校長、第一高等中学校(現・東京大学教養学部)校長、を経て1893年に高等師範学校(現・筑波大学)校長に就任しました。

近代留学生教育の発端

日本の教育の未来を双肩に担い、多岐に渡る活動を経た1896年、清国からの留学生受け入れを打診されます。ことの起こりは、清国から日本政府に対し留学生受け入れの要請があり、西園寺公望文部大臣から嘉納治五郎に対応依頼がなされたのでした。奇しくもこの年は、後に嘉納治五郎が人生の後半期をかけて取り組む近代オリンピックの第一回大会がアテネで開催された年でもあります。

清国が日本への留学生派遣の必要に迫られた背景はさまざまですが、その一つには、世界情勢の急激な変化の中で近代化が立ち遅れた清国の危機感があり、先に近代化を果たした隣国日本を参考にしようという動機が存在しました。嘉納治五郎は受諾した理由を次のように記しています。

我が国は、近時数十年の間に欧米諸国の文明を輸入し、その長を採りて我が短を補い、もって百般の事物に改革を施し、長足の進歩をなしたるものにして、その間ある事においては成功し、ある事においては失敗せり。かくのごとき経験を有する我が国に学びて改革を施すは、清国のためには大なる得策といわざるべからず。(中略)真に善隣の道を尽してこそ、始めてその結果反射して我が国の大利益となるべし。予は、かくのごとき考えを有するが故に、今回弘文学院といへる学校を起こし、清国より我が国に来りて諸種の学問をなす学生のために便宜を与えることとせり。〔造士会『国士』44・1902年(『嘉納治五郎大系第六巻』p.210,212)〕

嘉納治五郎は、短い間に欧米諸国から多くを学んだ日本を参考にして改革を進めることは清国にとって得策であると考えました。そして、日本もまた、清国との善隣の道を尽くしてこそ、巡り巡って大きな利益を得ることにつながるという考えから清国留学生教育に取り組んだのでした。

日本語の教育

神田三崎町の民家に設けられた寄宿舎兼学校は嘉納学校とも呼ばれ、清国から官費で派遣された最初の留学生13名が学びました。現場では、嘉納治五郎の弘文館で英語を学び講道館で柔道を学んだ本田増次郎が中心となり、教育にあたりました。

この寄宿舎兼学校はその後、亦楽書院と命名され、その発展とともに弘文学院、宏文学院と名を変えていきました。科目も充実し、日本語、歴史、算術、地理、理科、体操、幾何、代数、理化、動物、植物、修身などが設けられました。スポーツ教育も行われ、体操は嘉納治五郎が校長を務める高等師範学校で実施され、運動会やテニス、弓道、遠足も行われました。さらに、講道館の分場もつくられ、留学生たちは柔道を学ぶことができ、段位を取得することも可能でした。

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こうした教育活動・学習活動の基幹となったのが日本語でした。今から120年ほど前に、それは、いかにして教えられたのでしょうか。本田増次郎は次のように振り返っています。

私は留学生らとともに住み、同じ釜の飯を食べ、この全く新しい取り組みの中で、失敗も成功も味わいました。(中略)来日当初、留学生は日本語を一語も解さず、私も彼らが話す言葉を一切知りませんでした。そのため、時の教授法であったグアン・メソッドと筆談を組み合わせて用いたのでした。〔本田増次郎 “ The Story of a Japanese Cosmopolite. ” The Herald of Asia・1916年・筆者訳〕

留学生の日本語能力の事情と、そして、教師の中国語能力の事情から、筆談とグアン・メソッドを組み合わせた教育が行われたといいます。グアン・メソッドというのは、教師が動作をつけて語やフレーズを示し、学習者が反復するトレーニングを行った上で、問答練習を展開動作と発話のつながりを学習者に意識させる方法です。

本田増次郎が紹介した手法は展開された日本語教育の一部ですが、こうした教え方の工夫や学習者の努力により、いわゆるゼロビギナーの状態で来日した留学生たちでも、三ヶ月もすると生活に必要な日本語力を身につけたそうです。本田増次郎は彼らの日本語力向上を支えた素質について“人前で誤った言葉を使うことに躊躇しないこと”を挙げています。

分け隔てなくともに

清国留学生の受け入れがはじまった19世紀末から20世紀初頭は世界史の中でも激動の時代でした。とりわけ国家間の軋轢が顕著になった時期で、留学生教育にも暗い影を落とします。

そうした状況の中で、異なる国の人々がそれぞれの立場や目的で留学事業に参与したわけですから、当然そこには各人の思いや考えにずれがあり、すれ違いも生じます。加えて、日清戦争直後の日本では、清国留学生への差別的な発言や態度もまま見られ、留学生は苦しみ教師も心を痛め対応に追われました。さらには、辛亥革命が勃発した際には、留学生を派遣した母体そのものがなくなるという事態が生じました。嘉納治五郎は、動揺する留学生の安否と彼らの学修や将来を気遣い、私財を投じて全面的に支援をします。まさに善隣の道を尽くしたのです。

他者を受け入れ、分け隔てなく力を尽くす。この考えは、後の嘉納治五郎の活動にも共通して現れます。1893年に講道館柔道への女性の受け入れ、1908年に東京高等師範学校附属小で特別学級の設置がそれぞれなされます。そして1911年に創設された大日本体育協会による国民体育の振興を通して、年齢や性別、所得などを超えてスポーツに参加できる環境づくりに取り組みました。

1922年の講道館文化会結成式で、嘉納治五郎は「世界全般に亘っては人種的偏見を去り文化の向上均霑に務め人類の共栄を図らんことを期す」を宣言の一つとして発表しました。

偏見を拭い去り、文化の向上と人類が等しくうるおうことを実現し、ともに栄える、これこそ嘉納治五郎の取り組みに通底する考えであると感じられます。

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世界的な課題に「なあに」精神で向き合う

最も多い時期には約1,600名が在籍した宏文学院は1909年に閉校をむかえ、同年、嘉納治五郎はアジア初のIOC委員に任命されます。じらい、日本のオリンピック参加と招致、そして柔道の国際化に身を投じていきます。

オリンピックに関する活動にも戦争の影はついてまわり、1916年のベルリン大会は第一次世界大戦のため中止にいたります。そして、悲願であった1940年の東京大会についても、開催決定後に勃発した盧溝橋事件と日中戦争の影響から、開催の是非が問われました。国内外で返上論が沸き起こる中、それでも、嘉納治五郎は東京大会実現のための説得を関係各所に向けて続け、1938年のIOCカイロ総会で改めて東京大会開催が決定されました。それを見届けるかのようにして、嘉納治五郎は帰国船氷川丸にて亡くなります(享年77)。

しかし、開催決定直後に日本では国家総動員法が制定され、嘉納治五郎が亡くなった二ヶ月後には、緊迫する国際情勢への対応と戦争への注力が重視されオリンピック返上が正式決定します。時代の大きなうねりの中で中止となった1940東京オリンピックでしたが、嘉納治五郎が存命であればどのような対応がなされたでしょうか。

このように、嘉納治五郎が留学生教育に取り組んだときも、オリンピックをめぐる活動に取り組んだときも、取り巻く環境や状況は世界的な課題と無縁ではなく、困難を伴うものでした。しかし、時々の状況に完全には流されることなく、また、最初から諦めることなく、嘉納治五郎は自身の考えに基づき力を尽くしました。東京高等師範学校で嘉納治五郎に教えを受け、後に東京急行会長となった五島慶太は次のように語っています。

校長は嘉納治五郎先生で、一週間一回嘉納先生から倫理の講義を聞いたが、先生は柔道の格好で太い腕節を出して「なあに」という精神が一番必要だ、どんなことにぶつかっても「なあに、このくらいのこと」というように始終考えろということをいわれたが、先生の「なあに」精神は今でもハッキリ頭に残っている。〔日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社・1980年p.14〕

今日の世界に目を向けると、紛争や疫病流行、環境問題など、極めて多くの課題を抱え、また2020年の東京オリンピック開催も延期などを余儀なくされています。いついかなるときも、どんなに苦しいときも、「なあに、これくらいのこと」という気持ちで立ち向かい、荒ぶる時代の波の中で屈することなく日本の教育の推進や国際文化交流、柔道の普及やオリンピックムーブメントの展開に奔走した嘉納治五郎の姿から我々が学ぶことは多くあります。そして、嘉納治五郎とそこに生きた人々の交流と困難を乗り越えるための奮闘が、これほど私たちの心に響く時代はないともいえるのです。

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嘉納治五郎 (かのう じごろう)

1860 年、現在の兵庫県神戸市東灘区御影町生まれ。1875 年、官立外国語学校卒業後官立開成学校入学。1881 年、東京大学文学部政治学及び理財学を卒業。学習院教頭、高等師範学校長、第五高等中学校長、第一高等中学校長、東京高等師範学校長、文部省参事官、宮内省御用掛、文部大臣官房図書課長、文部省普通学務局長、講道館館長、IOC 委員、大日本体育協会初代会長、貴族院議員などを歴任。日本の教育の発展を牽引し、体育とスポーツの普及振興にも尽力した。また、留学生教育やオリンピックへの参加と招致にも力を注ぎ、国際文化交流を推進した。勲一等旭日大綬章受章。1938 年没。

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執筆/田中祐輔

筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、東洋大学国際教育センター准教授。著書に『2020年日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、『日本語教育への応用』(共著・朝倉書店)などがある。2018年度公益社団法人日本語教育学会奨励賞受賞。第32回大平正芳記念賞特別賞受賞。第13回公益財団法人博報児童教育振興会児童教育実践についての研究助成優秀賞受賞。
【科学技術振興機構researchmap】https://researchmap.jp/read0151200/

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