日本語学習の多くが、仕事で使うから、検定試験のため、履歴書に書けるから、将来日本に行きたいからなど「何かのために」勉強をしています。しかし、実はそうではなく、語学が好きだから、好奇心があるからなどの理由で長い間学んでいる学習者もいます。今回お話をうかがった日本語教師の内山聖未さんは、JICAを通してそんな熱心な学習者の元へ行き日本語を教えてきました。派遣先での様子やこれから活動したいことについてなどお話しいただきました。
小さい頃からいつか行きたかった青年海外協力隊
ーー日本語教師になったきっかけはなんですか?
小学生くらいの頃、地下鉄の中で青年海外協力隊の広告を目にしていて、若くて元気なうちに一回は行きたいなと思っていました。
父が旅行会社をやっていたので、海外に連れていってもらうことも多かったのですが、行き先は先進国がほとんどで、協力隊などで行くいわゆる開発途上国へはマレーシアくらいしか行ったことがありませんでした。旅行先は先進国の都市で、生まれ育ったのも東京。自分の知っている国はどこも似たり寄ったりで特に変化がないと感じていました。でも、世界はそんなはずはない、今まで行ったことのない開発途上国に行くチャンスは…となり、そこで、ずっと忘れていた青年海外協力隊を思い出したのです。
JICAの青年海外協力隊に行きたくて、そのための手段として選択したのが日本語教師でした。建築学科を卒業してすでに社会人2年目で、設計事務所に勤務していたので、募集職種の「建築」に応募しようとしました。しかし案件を見ると、私がやっていた設計ではなく土木だったので断念。他に探していて見つけたのが日本語教師でした。特に気にもせず見ていると、何ページにもわたって日本語教師の案件があり、その数の多さにびっくりしましたね。こんなにも日本語を教える仕事があるんだと驚き、面白そうだなと思いました。自分自身も外国語を学ぶことが好きだったし、自分の母語を海外の人に教えるというのはどんな感じなんだろうと興味を惹かれ、そこから日本語教師になるための情報収集を始めました。
千駄ヶ谷日本語教育研究所で420時間の資格を取ったのですが、どうやら未経験で理系出身者だと、選考に落ちる可能性が高いと知り、さらに日本語教育能力検定試験にも合格しました。
2つの資格をとり、いよいよ青年海外協力隊の試験を受けました。1回目は、「理系の人が日本語を教えられるの?」「教えた経験もありませんよね?」などと指摘され、結果は不合格でした。塾などで教えた経験はあったので、その経験で大丈夫かと思っていましたが、だめでしたね。
この試験は1年に2回実施されるので、1回目の経験を踏まえ半年後2回目に挑戦し、ようやく合格できました。
トンガで始まった日本語教師としてのキャリア
派遣されたのは南太平洋にあるトンガ王国でした。私が配属されたのは、首都のヌクアロファから離れた小さな島の公立の中高一貫校でした。任期である2年間、そこで日本語を教えました。
トンガには大学がなく、高校卒業後の進学先は、ニュージーランドやオーストラリアなどの大学や専門学校が多いです。そのため英語は中学から真剣に学び始め、授業や友達との会話なども全て英語で行われます。教えていた学校は島の中では特に進学校だったので英語でのルールが徹底されていました。
日本語は、いくつかある言語の中から選ぶというのではなく、手芸やコンピューターサイエンスなど、一貫性のない科目の中から生徒が選択して学びます。教えられる先生がいるものを学ぶ、という感じだったのだと思います。
トンガには日本の会社もなく、日本語を学ぶメリットは何もないと思われがちですが、生徒たちは遠い日本に興味を持ち、目を輝かせて勉強していました。中高一貫校だったので生徒によっては6年間、日本語を学び、ある程度までしゃべれるようになるのですが、それが活かされる場はほとんどありません。私たちが考えがちな目の前の実利実益などというものにほぼ直結しない日本語を、一生懸命勉強して視野を広げていたりするわけです。海外はおろか、首都にも行かず一生を終わる人もいる島で生活しながら、6年間日本語を学んで自分の視野が広がった! と生き生きとしている生徒を目にします。その姿を見ると、日本語教育はしゃべれるようになる、上手になるというのが絶対ではなく、その人の人生が広くなったり豊かになる、元気になるきっかけを与えられるものなのだと感じ、まさにこれこそが国際協力として、開発援助の枠組みの中で行う日本語教育の醍醐味、あるべき姿なのではないかと思いました。
教科書もコピー機もない! だけどできる活気ある授業
ーー授業はどのように教えたのですか?
日本での当たり前が全くないものでした。まず、教科書を持っているのは教師だけです。それが当たり前になっているので、生徒たちはまず先生が黒板に書く教科書の内容をノートに書き写し、ノートを教科書にしていきます。生徒たちは分厚いノートを持参してくるのですが、全員が揃って書き写したり説明を聞いてくれるわけではなく、やることがみんなばらばらなのがちょっと困りましたね。そのため、授業のやり方を説明することを私は一番最初にやりました。
トンガでは停電や断水が頻繁に起こりました。授業でも、小テストをやろうにも、停電でコピー機が使えなかったり、そもそもコピー機が壊れていたり、紙がなかったりという状態でした。結局黒板に書いて、生徒は書き写してということになります。
教科書がないくらいなので、たとえばフラッシュカードやひらがなのかるたなどもあるわけがなく、自分で作らなければいけませんでした。何もない状態でどうやって日本語を教えていくか、トンガで初めて日本語を教えた私にとってはその状態がデフォルトとなり、逆にラッキーでした。工夫しながら、生徒と一緒に楽しい授業を作っていくことができたからです。
たとえば「職業」について学ぶ授業では、教科書がないので決まった例文もありません。そのため生徒たちに、「日本語ではなんと言うか知りたい職業はなんですか?」と質問をします。そうすると、「農夫」など自分の身近な職業がでます。都会ではなかなか聞かれない職業ですよね。他にも、日本にはない仕事を一生懸命説明してくれるのですが、それに当てはまる日本語がないと答えると、「へー。日本にはその仕事はないんだ!」と目をキラキラさせてその事実を知るのです。これをやると生徒たちがどんどん発言して授業に参加しやすい雰囲気ができます。先生に対しても発言していいんだと分かってくるので、お互いの信頼関係も築けていい雰囲気の授業ができます。他の国でも行なっていますが、先生から与えられたものだけで文章を作るのではなく、自分たちで考えて出てきたもので作ることを重視しています。
日本語教師としてびっちり働いた4年半
ーートンガから帰国後も日本語教師は続けられたのですか?
帰国してからは、その経験がとても楽しかったので前職は辞めて本格的に日本語教師になろうと決意しました。トンガでの2年間で、海外で教えた経験はできましたが、それだけでは日本語教師のキャリアとして認められないと聞き、日本語学校に1年間勤めて経歴をプラスしました。そこで経験できたことは良かったのですが、あまり自由がきかない環境だったこともあり、私にとってはわくわくした感じが足りず、海外で教えたい気持ちが強くなりました。
結局マレーシアへ渡ることにし、語学学校で教えました。ゼロ初級から上級、超上級、試験対策クラスなど本当に色々なレベルの授業をやり、びっちりと日本語教師として4年半働きました。
マレーシアには日系企業で働く人も多く、日本語能力試験でN1やN2をとればボーナスがもらえるから、昇給できるからと、勉強する人もいます。まさに実利実益、お金のための勉強が存在します。
しかし、中には仕事では全く日本語が必要ないけれど、好奇心で勉強を続けている超上級者も少なくありません。日本に行く予定もないし行ったこともないけれど、そして「何かのために」がなくても、週2回同じ教室で日本語を学ぶ仲間と時間を過ごすことが楽しくて、超上級までずっと学習を続けている人がいる、そのことがとても新鮮でした。語学を勉強するときにはすぐに「何かのために」と考えがちですが、そうでない人たちも思った以上にいるんだということを知ってもらいたいと感じました。
様々な出会いで、「特に何かのために」ではなく熱心にそして生き生きと日本語を学ぶ学習者たちと濃い時間を過ごした私は、マレーシアから帰国した時にJICAのアフリカに行く案件を見つけました。すぐに、これは私が役に立てる可能性が高いものだと思い応募しました。協力隊で長期派遣された経験があれば、即戦力として活動できる短期隊員というのがあるのです。結果タンザニア、セネガル、スーダンに行きました。
学び方を強制はしない。教師は上達するための触媒になる
ーー国によって教え方の違いはありますか?
私の場合、国によってというより、個人によってあると考えています。一人ひとり学習スタイルは違うので、学び方はたくさんあるんだということを意識しておくよう心がけています。たとえばある学習者は書いて学び、ある学習者は聴いて学びます。そして「繰り返してください」と言ってもしない学習者には強制はせず、そういう学習スタイルなのかもしれないと考えます。それぞれの学習スタイルを許容し、理解しようとした上で学習者が上達する策を探ります。
上達するのにはもちろん個人差がありますが、教師は学習者たちの日本語力をどう上げるか、そのためのいい触媒になることが役割だと思いますね。
途上国での経験や魅力を伝えていきたい
ーー今後の夢や思い描いている将来像はありますか?
JICAの協力隊のなかで、赴任前の特に若い人が不安ばかり言うのが気になります。派遣予定の国でうまくできるのか心配、事前に何を準備して行けばいいか、困ったことは何ですかとよく聞かれるのです。
私はなぜ困ることを前提にして行くのか、その点がちょっと残念に思いますね。先のことを考えた準備をすることはもちろんいいことだと思いますが、私の場合は、若者たちに「心配ばかりしていないでどーんと行こうよ」と言いたいですね。「あまり心配しないで外に出てみようよ。きっと楽しいよ。」というような発信をする活動をしたいと思い、これから行く人たちに経験を話してくださいという依頼が来れば行くようにしています。心配したまま現地で教えていると、先生の緊張感や不安感が学習者にも伝わってしまいます。先生が楽しんでいる方が学習者もきっと楽しく学べますよね。
派遣先が決まってから、自分の希望と違って結局行かなかったというケースをいくつか知っているので、少しでも若い人たちがわくわくした気持ちを持って行けるように、経験者は活動の魅力を伝える義務があると思います。
内山聖未(うちやま・きよみ)
日本大学大学院 総合社会情報研究科文化情報専攻(言語教育コース)修了。 JICA青年海外協力隊日本語教師としてトンガに赴任後、アフリカを中心に5カ国で日本語教育に従事。国内では 日本語学校・大学などで非常勤講師。現在は海外技術研修員の日本語研修を担当するほか、JICA国際協力出前講座、NPO法人「16歳の仕事塾」の講師として国際協力・ 異文化理解に関する講演を行っている。
JICAボランティア事業について
青年海外協力隊は、独立行政法人国際協力機構(JICA)が実施するJICA海外協力隊の一つで、事業発足から50年以上という長い歴史を持ちます。これまでにのべ4万人を超える方々が参加しています。
参加者は、開発途上国からの要請(ニーズ)に基づいた技術・知識・経験を持ち、「開発途上国の人々のために生かしたい」と望む方を募集し、選考、訓練を経て派遣されます。
その主な目的は、
(1)開発途上国の経済・社会の発展、復興への寄与
(2)異文化社会における相互理解の深化と共生
(3)ボランティア経験の社会還元
応募できるのは20~69歳まで(青年海外協力隊は20歳~45歳まで)の方で、日本国籍を持つ方。活動分野は農林水産、保健衛生、教育文化、スポーツ、計画・行政など多岐にわたります。派遣期間は原則2年間ですが、1ヶ月から参加できる短期派遣制度もあります。募集期間は年2回(春・秋)です。
詳しくはこちらから。JICA海外協力隊 https://www.jica.go.jp/volunteer/
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