皆さんは 海外で日本語を教えてみたいと思ったことがありますか。コロナ禍、授業オンライン化の波の中で、海外に出ることをためらってしまうかもしれませんね。けれど、海外に出てみなければ体験できない魅力がたくさんあることも事実です。私が日本語教師になって、インドネシア、続いて中国東北部へ行くことになった経緯とそこから得たものをお伝えします。(編集部 奥山)
「どこでもいい」とにかく海外で教えたい
私が東京にある日本語学校で日本語教師養成講座を修了し、いわゆる有資格者となったのは2004年12月のことでした。同じ年の夏に語学留学していたイギリスから戻ったばかりで、数年以内に日本語教師としてもう一度海外に出たいという気持ちでいっぱいでした。
まずは就職活動。日本語教育関連サイトで求人情報を見て、教授経験なしでも応募できるいくつかの学校に履歴書を送りました。行き先にこだわりがなく、どちらかといえばよく知らない国、あまり日本人が行かないような地域に行ってみたい気持ちが強かったので、未経験者であってもそれなりの選択肢はありました。
中国へ行くはずがインドネシアへ
最初に面接を受けたのは中国の新疆への派遣でした。内陸部で砂漠に近く、昼は40度、夜はマイナス何十度になる不便なところだが大丈夫かというような質問をされた記憶がありますが、そんなことは現地に行ってみなければわかりません。面接の後一週間ぐらいして連絡があり、新疆へは中国語が堪能な先生に行ってもらうことになったが、インドネシアへの教師派遣の話もあるので興味はないかと言われ、これが日本語教師としての第一歩となりました。
南国インドネシアはすべてが日本とは違う速度で動いていて、歌にあったように「風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらお休みで」という国。しかも雨は毎日降ります。授業が終わればジャラン・ジャラン。学生が「散歩します」と言ったら、この「ジャラン・ジャラン」のこと。外を歩くのではなく、たいてい学校近くのモールでぶらぶらして過ごすという意味です。インドネシアでは何事も予定通り進みませんが、おっとりとした学生たちに「センセイ、ティダ・アパ・アパ(問題ない、たいしたことない)」と言われながら楽しく3年間を過ごしました。
日本語教師のキャリアを考えると、中国は外せない
一年目はわけもわからずあっという間に過ぎ、二年目でようやく落ち着いて授業のことを考えられるようになり、充実してくるのは三年目。それと同時に三年も経つと「そろそろ別のところへ行きたいな」という気持ちになってきます。この先も日本語教師を続けるのなら、やはり一度は中国で教えておきたい。いずれ国内で教えるとしても中国人学習者と関わる可能性は高いし、非漢字圏、漢字圏の両方で教えた経験は強みになるはず。そう考えて、中国を中心に三年前と同じ方法で履歴書を送り始めました。
しばらくしていきなり中国から国際電話がかかってきました。面接ではなく、「採用したいが、本当に来てくれるか」という打診でした。後でふりかえってみれば、それぐらい応募が少ない地域だったのだとうなずけます。こちらは当然行く気があるから書類を送っているので「行きます!」と即答して電話を終えました。
電話を切ってから、はて、自分は広い広い中国のいったいどこへ行こうとしているのかと、授業のために100円ショップで買った世界地図があるのを思い出して広げてみました。南…ではない。北京周辺でもなさそう…。あ、あった。このとき初めて「吉林」が日本語読みで「キツリン」となることを知りました。
南国から寒冷地へ
中国吉林省吉林市。吉林省は中国東北三省のひとつで、北朝鮮と国境を接し、朝鮮族の人々がたくさん住んでいる地域です。気候はロシアより少し暖かく、人々の生活はかろうじてインターネットがある50年ぐらい前の日本、というところでしょうか。
気候だけでなく、学生の学習態度もインドネシアと真逆でした。学生の毎日は勉強に次ぐ勉強。朝早く起きてキャンパスで勉強、先生が来る前の教室で勉強、寮に戻って勉強、休みの日は図書館で勉強。そして勉強とはひたすら教科書を音読することでした。それでも学生の大部分はそれなりに上手になっていくので、「語学は時間をかけた分だけ上達する」ということをある程度証明してくれていました。
3年間の吉林生活の後、私はまた西へ西へと移動し、結局トータルで13年ほど海外日本語教師生活を送ることになります。インドネシアと中国東北部は世界的に見て比較的日本語学習が盛んな地域です。新米日本語教師としては大学の日本語学科で、「会話」「作文」「日本事情」など、いろいろな授業を担当できたこともラッキーでした。しかし、それ以上に日本と気候も生活水準も大きく異なる地域で生活した経験が「私はどこでも大丈夫」という海外生活者としての大きな自信になってくれました。帰国して2年、またいつか海外で教えたいという気持ちは今も強く残っています。
片目をつぶって飛び込む
「何か思い切ったことをするときには、片目をつぶって飛び込む」、大学時代の先生の言葉です。日本を離れて外国へ行くことには大きな不安が伴います。しかし、不安を数えて考えていたらいつまでたっても、飛び立つことはできません。かといって、後先考えずに踏み出してしまっては困ったことになったり、場合によっては危険なこともあるかもしれません。私が日本語教師として行き先を決めたときにも、「住むところは学校が準備してくれる」「もし途中で帰国することになってもこれぐらい持っていれば航空券が買える」など、最低ラインを引いて考えていました。片目だけはしっかりと開いていたから、思い切って飛び込むことができたのだと思います。そして、最初の一歩さえ踏み出してしまえば、後は次々につながっていきました。
オンライン授業の時代が始まったと言っても、インドネシアや吉林のような地域で毎日安定してオンライン授業を受けられる環境にいる学生はごく一部です。日本人教師を必要としている地域はまだまだ多いはずです。2021年3月現在、日本語を教えるために海外に向けて出発することはほとんど不可能な状況です。けれど、だからこそ落ち着いて自分のしたいことを見極められるとも言えます。コロナが収束し、再び世界各地へ飛び立てる日はいつか必ず来ます。海外で教えることに魅力を感じているなら、その日までじっくりと「海外日本語教師生活の始め方」を考えてみませんか。
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