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中国での日本語教育の発展を支えた、市民による国際交流 ― 長洲一二元神奈川県知事の民際外交 ―

国際交流基金が3年に一度実施している『海外日本語教育機関調査』の結果がこのほど発表され、世界142の国・地域で385万人もの人々が日本語を学習していることが公開されました。40年の間に学習者数は実に30倍に増加し、日本語や日本文化に親しむ人々は日本と諸外国との交流の重要な担い手となっています。

そして、この日本語学習熱を牽引するのが世界で最も多くの日本語機関数、日本語教師数、日本語学習者数を擁する東アジアであり、とりわけ、中国はその筆頭として量・質ともに世界屈指の日本語教育を展開してきました。
今回は、中国における日本語教育の発展を支えた市民と市民とによる交流と、その構想を打ち立て実現した長洲一二元神奈川県知事の民際外交に着目します。(田中祐輔:東洋大学准教授)

国交正常化と日本語教育

中国における本格的な日本語教育実施の発端として広く知られている事柄は日中両国政府による共同声明です。1972年9月29日、北京で調印された本声明では、国家として承認し合うことや相互に大使館を開設することなどが発表され、今日の礎となりました。

1978年には日中平和友好条約、1979年には日中文化交流協定が締結され日本語教育施策も進められました。大平正芳総理の中国訪問に関する共同新聞発表では以下のように述べられています。

大平総理大臣は、国造りの基礎は人造りにあるとの認識から中国の留学生の日本への受入れを始めとする文化面における協力及び技術協力積極的に温める旨述べるとともに、特に文化面における協力の一環として、中国における日本語学習を促進するため明年度以降具体的な形で協力する意向を明らかにした。〔外務省,1979,大平総理大臣の中国訪問に関する共同新聞発表,p.5〕

文化面での両国の協力の一環として日本語学習の促進が据えられ、現在の中国における日本語教育の根幹となる事業や取り組みがいくつも進められることとなったのです。

日本語学習熱と自治体による支援

こうした1970年代末から1990年代の状況について中国国家外国専家局で国際教育事業を手掛けた李明俊元副局長は次のように述べています。

中国と日本をはじめとする諸外国との交流が進み、繊維、鋼鉄など幅広い工業産業が発展しました。日本との輸出入も増大し、日本語人材へのニーズが高まり、同時に、教育環境も整備され各地の大学に機関が次々と設置されました。このような学習者の増加は、教師の需要増にもつながり、また、日本語と日本文化に精通したネイティブ教師の獲得も急務となり海外からの教員募集が提案され進められました。〔2014.7.27インタビュー・聴き手筆者〕

日本と中国との交流が進み経済的な結びつきも深まる中、日本語人材の必要性が高まり、大学をはじめとする日本語教育機関が急増しました。そして、そこでは、日本語と日本文化に精通するネイティブ教師への需要が高まることとなったのです。

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上のグラフは『海外日本語教育機関調査』(国際交流基金)の結果を筆者がまとめたものです。緑の棒グラフは中国の学習者数を、オレンジの折れ線グラフは機関数の推移を示しています。グラフをご覧いただくと、李明俊元副局長のお話の通り、機関数では1974年から1979年に13機関から101機関に、1979年から1984年は101機関から217機関に、1984年から1990年は217機関から1,075機関にそれぞれ急増していることがわかります。こうした状況下で、とりわけ大学においては社会が求める高度な日本語人材へのニーズに対応するための機関数増であったため、その実現にはネイティブ教師の不足解決することが不可欠だったのです。

この大学の日本語教育の規模拡大を、ネイティブ教師の供給という側面から支える一つの要因となった出来事が1978年7月に起こります。日本で開催された在日本大公使招待レセプションの席上で、偶然、長洲一二神奈川県知事と席を隣り合わせた金蘇城一等書記官から、中国の日本語需要についての説明があり、中国の大学への日本語教師の派遣要請がなされます。まだ国レベルでの派遣も試行段階にあった時期でモデルとなる先行事業もなく、また「神奈川県にとっての益とは何か」といった指摘も一部から出たため、周囲は実現困難という見方でした。しかし、長洲知事は“外交は国家レベルの活動に負うところが大きいとはいえ、国境を越えた市民同士、自治体同士の多様な交流も大切である”という考えから快諾し、すぐに神奈川県教育長へ事業設置指示、急ピッチで準備が進められました。

神奈川県からの教員派遣ということで県立学校の教員、中でも高等学校の国語科の教員から派遣教師が選ばれることとなり、翌年からの南海大学、南京大学、四川外国語学院、山西大学、上海外国語学院への派遣者5名が決定しました(写真1枚目)。

派遣教師たちの熱心な指導と学生たちの懸命な努力

中国の五大学に派遣された教師たちは使命感を持って日本語教育にあたり、朝から晩まで学生指導に力を注ぎました。授業はもちろんのこと、授業以外の時間も昼夜問わず学生たちからの質問に答え、会話や作文の練習や論文指導をし、帰宅後は深夜まで授業研究と準備に没頭しました。当時の学生たちには、派遣教師たちの献身的な姿が鮮烈に印象に残り、「教材はすべて、謄写版刷りだった。毎晩遅くまで自らガリ切りされて用意された。右手の指にはペンだこがあったことをはっきり覚えている。」〔王敏,2006,「右手の指のペンだこ」『遠近』9,p.12〕、と回想されています。

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学生たちもまた懸命に努力をし、朝6時から大学のグラウンドで教科書を朗読、授業後は復習、そして夜中まで暗唱と予習、という日々でした。当時南京大学の学生であった谷肖梅氏(現:東南大学教授)と、四川外国語学院の学生であった趙戈非氏(現:四川外国語大学准教授)は次のように語っています。

入学した時に日本語科の私たちは“教室の中で日本語しか話さない”というルールを作って。中国語でしゃべったら罰金にしましょうと。その罰金でみなの甘食を買おうと。日本語科の人全員どこに行っても日本語でしゃべっていました。そしたら英語科の人たちは私たちを見て羨ましがっていた。「あなたたちは凄いですね」と褒められて。目が覚めたら勉強。寝るときも日本語のラジオ、イヤホン聞きながら寝てって感じで、でまた目が覚めたら勉強、全員。〔2014.3.1インタビュー・聴き手筆者〕

午後は何をするかっていうと、テキストを読んだ。繰り返し、もう20回、30回読むんですよ。あの時代。先生から「やりなさい」はない。なぜかというと、やっぱり苦労したんです、それまでに。だからこんなね、機会、今大学に入れる機会はね、ものすごい恵まれてる。だから、勉強しない理由はない、怠けなかった。〔2014.3.4インタビュー・聴き手筆者〕

大学で学び巣立った学生たちは外交やビジネス、学術といった幅広い分野に進み、多くの功績を残すこととなりました。

民際外交という思想

神奈川県による中国への日本語教師派遣事業はひとつの成功事例となり、その後、東京都、埼玉県、山梨県、静岡県、三重県、奈良県、岡山県、広島県、山口県、愛媛県、長崎県でも実施されました。神奈川県のみでも1979年から現在までに計101名の教師が中国各地の大学に派遣され、中国で希求されていた日本語と日本文化に精通したネイティブ教師を供給し、結果的にその後の中国の日本語教育の発展を支える事業となりました。

ではなぜ、この新しい国際交流事業を始めたのが神奈川県だったのでしょうか。実は、神奈川県と中国との関わりは1979年の日本語教育事業開始前から存在していました。第8代から12代まで神奈川県知事を務めた長洲知事は1975年の就任時に「民際外交」(市民と市民とによる国際交流)を提唱し、1976年には地方自治体として初となる部局横断型の国際交流課を設置しました。1975年の第三回日中友好神奈川県青年の船では団長として知事自身が上海を訪れ、1976年には渉外部から友好訪中団を、1977年には神奈川県日中友好の翼訪中団を派遣しています。そして、1979年からは今回着目した中国への日本語教師派遣事業が開始され、1983年には遼寧省との友好提携協定が結ばれました(写真4枚目)。1982年からは、中国の若手日本語教師への研修受け入れ事業も開始され、1998年までに計161名が、神奈川県立技能訓練センター・神奈川県国際研修センター・神奈川県立教育センターにおける日本語教育研修を受けました。

中国について長洲知事は以下のように述べ、在任期間中、特に関係を重視する姿勢を貫きました。

日本は全世界を必要とします。それなら世界が必要とする日本にならなければなりません。その中でとりわけ最も近い隣国の一つである中国と平和に共存していくことは、日本の外交政策の基本の一つというべきです。(中略)私は、かねてから外交というものは、国家と国家との国際外交だけではだめだ、民衆と民衆との間の民際外交こそ土台だと考えておりました。〔長洲一二,1983,『燈燈無盡―「地方の時代」をきりひらく―』ぎょうせい,p.43〕

隣国との市民と市民とによる交流を通して外交の土台を築き上げる。こうした思想とリーダーシップが新しい日本語教育事業展開の土壌となり、他に先駆けた国際交流事業が実現したのです。

世界的課題に国境を超えて向き合う

とかく国家間の「外交」「国際交流」というと、大きくて遠い出来事のように感じてしまうことがあります。ですが、そのひとつひとつの活動の担い手は長洲知事が提唱するように市民と市民とに他なりません。中国の日本語教育の成功も、そこで教え学んだ教師や学生たちひとりひとりが自覚と使命感を持って取り組んだことによるもので、そこには人任せではない本物の国際交流の姿が見えるように感じるのです。

長洲知事は後年、その想いを次のように語っています。

私は、知事に就任しましてから、平和こそが子や孫に誇れる最大の遺産ではないかと常々話してまいりました。しかし、現実の世界は、東西関係、核問題、南北問題、人権問題など深刻な国際的課題が山積しています。これらの問題の解決には、国家レベルの活動に負うところが大きいとはいえ、国境を越えた市民同士、自治体同士の多様な交流を通じて相互の結びつきを強め、世界のすべての人々が共に人間らしく生きていける平和な世界の創造をめざしてゆくことが求められています。私は、このことから市民レベルを主役とした「民際外交」を提唱し、神奈川県政の重要な柱として位置づけてまいりました。〔長洲一二,1987,「ごあいさつ」『10年のあゆみ』財団法人神奈川県国際交流協会,p.43〕

ここで述べられている「深刻な国際的課題」、そして、現在の新型コロナウイルス感染症の問題を含め、今の世界も長洲知事が指摘するように課題が山積しています。そしてまた一方で、冒頭で紹介した国際交流基金による調査結果にあるように、世界的な日本語教育の需要も高まり続けています。こうした状況において、いかなる日本語教育を展開すれば良いのか。まだ明確な答えは出されていません。

長洲知事が提唱した『民際外交』という国境を越えた市民同士のつながりと、世界の創造を目指す協働、という視点は、今日の世界的課題に向きあうためのヒントと、日本語教育を通した国際交流のあり方を投げかけているように思われるのです。

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長洲 一二(ながす かずじ)

1919年、東京生まれ。東京商科大学(現・一橋大学)卒。日本銀行、三菱重工業、横浜経済専門学校を経て、横浜国立大学教授。1975年に神奈川県知事に初当選し、第8代から12代までの5期二十年にわたり神奈川県知事を務めた。「地方の時代」を掲げ、民際外交、ともしび運動、男女共同社会など先端的取り組み展開した。政界引退後は、湘南国際村協会社長、かながわ学術研究交流財団理事長を務めた。メリーランド州立大学名誉法学博士、スウェーデン北極星勲章受章、マレーシア・ペナン州勲一等州功労賞受賞、勲一等瑞宝章受章。1999年没。

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執筆/田中祐輔

筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、東洋大学国際教育センター准教授。著書に『2020年日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、『日本語教育への応用』(共著・朝倉書店)などがある。WEBサイトに『日本語教育100年史映像アーカイブ』(https://oralhistory-jle.com)や『帰国・外国人児童のためのJSL国語教科書語彙シラバスデータベースCOSMOS』(https://cosmos.education)などがある。2018年度公益社団法人日本語教育学会奨励賞受賞。第32回大平正芳記念賞特別賞受賞。第13回公益財団法人博報児童教育振興会児童教育実践についての研究助成優秀賞受賞。
【科学技術振興機構researchmap】https://researchmap.jp/read0151200/

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