古くは19世紀欧州の“Japonisme”という日本ブームを牽引し、現在では300万人が訪れる日本文化イベントが開催されるなど、フランスは日本語や日本文化にとりわけ理解のある国とされています。
今回は、そのフランスにおいて長年日本語とフランス語による情報発信を行い、日本語教育や継承語教育にも大きな影響を与えたイリフネ出版がいかにして設立されたかについて、創業者のベルナール・ベロー氏と、日本の雑誌の神様とも称される清水達夫氏との縁に着目します。(田中祐輔:東洋大学准教授)
1963オリンピック前夜の東京
フランスで月12万部発行されている日本語新聞『OVNI(オヴニー)』をはじめ、雑誌や書籍を刊行するEditions Ilyfunet(以下、イリフネ出版)は、パリ10区ナンシー通りに建ちます。“フランスと日本とをつなぐ”というコンセプトのもと、人材派遣や印刷業、ウェブサイト制作、広告代理業務、市場調査、イベント企画・運営といった多角的な業態を持つ中で、日本語教室運営と日本語図書室運営は出版業に並ぶ根幹事業です。
創業者であるベルナール・ベロー氏は、学生時代にマルセイユ発の船に乗り込み、インドのボンベイを経由して一ヶ月かけて東京に降り立ちました。1963年、春のことです。いたる所が工事中の粉塵舞い上がるオリンピック前夜の東京で、唯一の手がかりは知人から渡された早稲田大学フランス語学者の数江譲治教授の電話番号でした。
数江教授と連絡が取れ、その伝手で、当時設置されたばかりの早稲田大学語学教育研究所に通学することになったベロー氏は、後に日本語教育学会副会長となる木村宗男氏から日本語指導を受けました。
最初だから、どこのクラスに入るか、試験があったわけですね。周りはみんな韓国か中国の人だから漢字とかものすごくできたのを覚えています。木村先生の教え方は、すごくわかりやすくて、楽しかったですね。〔2019.3.29インタビュー・聴き手筆者〕
清水達夫氏宅での下宿生活
ベロー氏の下宿先は清水達夫氏(1913-1992)の自宅でした。清水氏は、1945年、日本の雑誌史に残る『平凡』や『週刊平凡』『平凡パンチ』『an・an』を創刊し、雑誌の神様と呼ばれた人物です。ベロー氏は、たまたま共通の知り合いだった清水家の英語家庭教師を通して紹介され、運命の出会いを果たします。
上智大学の英語の先生と食事をしていたら、「僕の日本人の生徒さんは新宿の高円寺のほうに住んでます。もし、日本人の家族に会いたいとかだったら、ぜひ一緒に行きましょう」って清水さんの家に誘ってくれたんですね。清水さんと奥さん、あと二人の娘さんと知り合って、片言で喋ったのが始まりです。その後、住まわせてもらって、半年間毎日ですね、日常生活を過ごしたんです。日本人の生活を見て、味わったということで、僕にとってすごく大事だったと思うんです。あと、将来を考えてもです。清水達夫さんは僕にとってものすごく大切な人物で、イリフネ出版ができたのも、清水達夫さんのおかげがとても大きいんです。〔2019.3.29インタビュー・聴き手筆者〕
もうひとつの出会い
一年間の留学生活でベロー氏はもう一人重要な人物に出会います。後に夫人となる小沢君江氏です。東京オリンピックの準備のためのフランス語通訳養成講座が早稲田大学の仏文科学生対象に開かれ、ベロー氏はその講師を務めました。当時、仏文科三年生だった君江夫人は以下のように著書で振り返っています。
夏休みの何日間か、フランス語会話の特訓講習会も開かれた。それを担当したのがルネ(※ベロー氏)だった。それより一年ほど前に、フランス語クラブの法学部の先輩、北村さんがルネをわたしに紹介してくれていたので、わたしたちは顔見知りだった。最初に顔を合わせたのは大隈講堂前でバスを待っていたときだった。そのときどういう挨拶の言葉を交わしたかは忘れたが、ルネがこげ茶色の細縁の眼鏡をかけ、くわえていたパイプを手にとって、やさしいまなざしをわたしに向けていたのをおぼえている。(中略)オリンピックの通訳たちにフランス語会話の講義をするときのルネはどこまでも厳格で、その立居振舞はとても二十二歳には見えなかった。「マドモワゼル・オザワ」とわたしを指すときも、個人的な感情の入りこむ余地などなかった。東京オリンピックの晴れの舞台が間近に迫ったある日、ルネは突然パリに発ってしまった。どうして発ったのか、話を聞くまもなかった。〔小沢君江(1993)『パリで日本語新聞をつくる』草思社.pp10-11〕
帰国後のベロー氏は、ジェトロパリ事務所での通訳業などで生計を立てながらフランスで最も長い歴史と権威を持つ東洋語学校(現フランス国立東洋言語文化学院)に通い、1967年に卒業します。その後、雑誌『East Orient』フランス語版の出版に携わり、校正や編集の経験を積み、国際映画配給会社UniFranceの東京支社の委嘱も受け、日本にフランス映画を紹介するための翻訳やライターも始めました。そして、1970年、文通を続けていた小沢君江氏と8年越しの愛を実らせ、結婚します。
イリフネ出版の立ち上げと日本語新聞の発行
その後、ベロー夫妻は子育てをしながら、公的事業での通訳や翻訳業に従事していましたが、日仏のメディアに対する疑問が湧き上がってきたといいます。
1964年に日本で海外渡航が自由化されて、70年代にはたくさんの日本の人がパリに来るようになったんです。それで、日本の新聞や雑誌を中心にフランスに関する報道が増えました。でも、「どうしてこんな紹介の仕方をするんだろう」と思うことが多くなり、不満を感じたんです。フランスの表面的なイメージを、新しいメディアによって変えないといかんのじゃないかと思ったんです。〔2019.3.29インタビュー・聴き手筆者〕
当時、日本でのフランスの紹介のされ方は、極端にステレオタイプ化されたファッションや食文化だったとベロー氏はいいます。また一方で、フランスでの日本の紹介のされ方にも偏りがあり、経済のみに盲目的に突き進む日本人の姿が強調されていました。そこには、ベロー氏が知るフランスの豊かな市井の文化や歴史、日本の人々の魅力や生活文化には目が向けられていなかったのです。
そんな折、通訳や翻訳の仕事を通じて交流が続いていた清水氏から連絡が届きました。『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』のデザインで有名なグラフィックデザイナーの堀内誠一氏がパリに移住したいと言っているため、面倒を見てくれないかという依頼です。
パリにやってきた堀内氏は、当時のフランスには見られなかった和文タイプとともにあらわれました。そして、日ごろ感じているメディアや出版物への問題意識を語り合ううちに、こうなったら自分たちで新聞を出してみたらどうかと提案されます。
ベロー夫妻は決心し、堀内氏の協力のもと、1974年5月に月刊新聞『いりふね・でふね』を刊行します。フランスと日本の文化や社会を新しい視点から描き出す新聞の名称は、堀内氏が付けてくれたものです。「入船、出船」を由来として、人々が出入りし交わることで知性や思想を交わすさまを表しました。堀内氏が日本から担いできた和文タイプで印字した原稿をベロー氏が蚤の市で手に入れた活版印刷機で2万部(後に6万部)印刷し、毎回手分けして配達しました。
堀内氏が描いたイラストが付された紙面は、フランスと日本の政治や社会に関するトピックや、パリを深く知るための歩き方、人々の意識、そして時に性に関する事柄まで、人の生そのものにさまざまな視点からアプローチする内容でした。そして、この『いりふね・でふね』の構成や内容は、特定のジャンルに縛られず、雑誌の中で人間社会を表現した清水達夫氏の雑誌作りと重なります。
人と人との縁がフランスにおける新たな日本語メディアを生み出し、不思議な共鳴と連鎖を生じさせていたのです。
日本語教室をはじめとする相互理解の拠点として
1978年、月刊新聞は広告収入を基盤として隔週発行のフリーペーパーに進化し、より広く普及します。同時に名前も変え現在も続く『OVNI』となりました。そして、イリフネ出版は得られた資金を元手に、人々が直接交流可能な場作りにも取り組みます。
1981年、パリオペラ通りの近くに日仏文化交流センターEspace Japon(エスパス・ジャポン)を開設。そこでイリフネ出版の刊行物や日本に関する書籍などを集めた日本語図書室を設置したのです。現在では、児童書から専門書まで1万冊に及ぶ蔵書を有し、パリの人々が日本語資料にふれる貴重なよりどころとなっています。また、日本に関心を持つ人々や、『OVNI』の読者、日本語教師、学習者、研究者たちのサロンとしても機能するようになりました。
次に、当時日本の経済成長を背景として高まっていた日本語学習熱にも応えられるよう、Espace Japonでは日本語教室も開始されます。結果、限られた大学や専門機関の日本語教育ではカバーしきれない幅広い層の日本語学習ニーズに合致することとなり、毎年70〜150名が通うようになります。その中には、フランス人と日本人との国際結婚で生まれたこどもや、両親の仕事の関係でフランス滞在歴の長いこどもといった、いわゆるJSL児童も多数おり、継承語教育の重要な場としても機能しています。
Espace Japonの活動は年々広がり、1988年には作家の野坂昭如氏のコンサートも行われ、現在では併設されている展示スペースで日本のアーティストの展覧会も催されています。パリの学校や図書館などの公共施設と提携した日本語日本文化体験プログラムから、コミュニケーションとチームワークをテーマにした企業向けワークショップまで、多種多様な日本文化の普及に取り組まれています。
イリフネ出版のチャンネルがこうして増えることは、在仏日本人とフランス人、日本に興味のあるフランス人どうし、また日本には全く縁のなかった人々が偶然出会う機会をもたらすことにつながり、ひとつの文化拠点として人をつなぎ交流する場へと成長したのです。
「日本語=人生」という視座
筆者がベロー氏にインタビューさせていただいた際、最後に「日本語とはご自身にとってどのような意味を持つ存在でしょうか」と率直に尋ねました。
日本語は、結局、一生ですね。僕の人生です。清水さんに出会って、結婚して、奥さんや堀内さんと新聞を作りました。今のイリフネのみなさんとも出会って仕事をした。で、みな熱心で責任感があって個性があったんですよ、とても。だから、みながマイペースで創造的に仕事ができた。〔2019.3.29インタビュー・聴き手筆者〕
日本語を通して出会った人々、対話や協働を通して生み出されたイリフネ出版、そしてイリフネ出版の活動により広がった日本理解や人々の新たなつながり、それは、総じてベロー氏の一生となったのです。
ベロー氏が語って下さった、この「日本語=人生」という視座は、日本語教育にとても豊かで、そして、ダイナミックな広がりをもたらしてくれるように私には感じられます。日本語学習者がことばを習得し文化を理解することの“先”に、さまざまな出会い、対話と創造、社会や人々への影響、が存在するという大きな見通し。この「日本語=人生」としての視座を持つことで、日本語教育のあるべき姿や果たすべき役割、新たな可能性が見出されるのではないかと考えられるのです。
ベルナール・ベロー Bernard BERAUD
1942年ベトナム、ハノイ生まれ。巨大建築会社エッフェル社に勤務した父親の仕事の関係からフランス租界で育つ。1963年、日本へ留学し、マガジンハウス創業者清水達夫氏の自宅に下宿しながら早稲田大学で木村宗男氏らによる日本語教育を受ける。1967年、フランス国立東洋言語学校卒業。1974年、夫人である小沢君江氏とともにイリフネ出版を共同設立し、グラフィックデザイナーの堀内誠一氏らと日本語新聞『いりふね・でふね』を刊行。1979年にはフリーペーパー『OVNI』を創刊し、幅広い層から支持を得て日本ブームの火付け役となる。新聞や書籍、雑誌の発行に加え、Espace Japonとして日本語教室や図書室の運営、文化体験イベント、カフェや料理教室も展開。長年の活動は、フランスにおける日本理解促進や日本語普及、フランスで育つ日本人や日系人のこどもへの継承語教育推進にも影響を与え、日本語メディアとしての立場から日仏交流に多大な貢献を果たした。
執筆/田中祐輔
筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、東洋大学国際教育センター准教授。著書に『2020年日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、『日本語教育への応用』(共著・朝倉書店)などがある。2018年度公益社団法人日本語教育学会奨励賞受賞。第32回大平正芳記念賞特別賞受賞。第13回公益財団法人博報児童教育振興会児童教育実践についての研究助成優秀賞受賞。
【科学技術振興機構researchmap】https://researchmap.jp/read0151200/
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