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ロシアの日本理解に力を尽くした日本人漂流民ゴンザ - 露日辞典と300年にわたる教師リレー -

日本とロシアとの修好165周年を迎える今日、日露間では、政治経済から文化芸術まで幅広いチャンネルで交流が行われています。日本の外務省が2016年に実施した調査によると、ロシアでは日露関係が比較的友好状態にあると認識する人々の割合が約80%に上り、日露友好関係は重要であると認識する人々の割合は実に97%に達しています。

今回は、300年前にさかのぼり、この日本とロシアとの交流の礎を築いた一人である漂流民ゴンザの露日辞典に着目します。(田中祐輔:東洋大学准教授)

現在、国外では実に142の国・地域において日本語教育が行われ、3,846,773名が日本語を学んでいます〔国際交流基金2019・『2018年度日本語教育機関調査 速報値』〕。各国各地域では日本語教科書の開発も盛んで、webサイトやアプリケーション上で動作する比較的新しい形態の教材も作られています。活況を呈する様子は“戦国時代”と表されるほどです。

しかし振り返ってみると、こうした海外における日本語教育は一朝一夕に成立したわけではなく、そこには先人たちの多くの苦労や努力がありました。今回の舞台となるロシアにおける日本語教育もまた、さまざまな人々の身命を賭した取り組みによって切り拓かれました。約300年前の草創期に活躍した教師の中には、数奇な巡り合わせで日本語教育に携わることとなった日本人も含まれ、彼らは日本からの漂流民でした。

運命の越境

記録が残るロシアへ渡った漂流民の最初は江戸期の1696年とされ、以後150年間に200名弱が漂着したとされます。今回の主人公であるゴンザは、そうした人々の中で、辞典作成という大事業に携わった人物です。

1717年に薩摩国に生まれたゴンザは、1728年に、舵手をしていた父親に連れられ大坂の薩摩藩邸に物資を届けるための船に乗り込みます。米や絹織物、木材、紙などを積んだ乗組員17名の船は出帆後、嵐に遭い、半年に渡る漂流の末、カムチャツカへ辿り着きました。なんとか生き延びた船員たちでしたが、現地で遭遇したカムチャツカ原住民により15名が殺害されてしまいます。11歳の少年ゴンザと35歳の商人ソウザだけが生き残り、二人の存在を把握したロシア政府に保護されることとなりました。

殺害を指示した人物は、その後罪を問われ絞首刑に処されますが、漂流生活のみならず父親や同胞までをも失ったゴンザの悲しみは、はかり知れないものがあります。

大陸大移動と当時の情勢

その後、二人はヤクーツクやトボリスク、モスクワを経て当時の首都ペテルブルクへと送られます。単純にその距離を直線的に測っても8,000km近くに及びます。

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ジェット機で移動できるような時代ではもちろんありませんので、迂回したり、登ったり、下ったり、戻ったり、実際の距離ははるかに長かったものと思います。それも、日々の天候や、各地のインフラの状況、自身の健康状態の影響を受けながらです。少なくとも地球一周の1/5を移動した人物は、当時の日本人としては稀有だったといえるでしょう。

二人の移送には当然コストがかかります。燃料に食料、同伴者の人件費など決して少なくはありません。しかし、当時のロシアでは、地政学的な理由から東方への関心が強く、新たな資源や、港、交易などを探索する上で日本の情報を持つ漂流民は首都に移送されるだけの価値が十分にある対象でした。

ロシア語の学習

1733年、二人は首都ペテルブルグで当時の女帝アンナ・ヨアノヴナに謁見します。漂着から4年後のことです。その後、二人はロシア正教の洗礼を受け、ゴンザは神学校でロシア語を学び、さらに、科学アカデミーにて学習を続けました。若かったゴンザのロシア語の上達ぶりは周囲が驚くほどのものでした。

こうした経緯は、決してゴンザが最初から望んでいたものではありません。ただ、結果的にこの時期に学んだロシアのことばや文化に関する知識は、その後の日本語教育を行う上で活かされました。とりわけ、後述する辞典作成においては、相手国のことばを日本語に置き換える、あるいは日本語を相手国のことばに置き換える作業が必須で、そこには、ロシア語能力とロシアの文化や社会への理解が必要不可欠であったからです。

日本語教育とは教師から学習者に向け一方的に行うことができるものでは決してなく、教師もまた相手のことばや文化を学ぶことが須要で、その意味ではゴンザの日本語教育や辞典開発の根幹には、ゴンザが受けたロシア語教育があったともいえるでしょう。

ボグダーノフとゴンザの手になる世界初の露日辞典

1736年、勅命によりゴンザは科学アカデミー付属日本語学校の教師となります。同じ年、苦楽をともにしたソウザは亡くなります(享年43)。そして、ソウザが没した直後に、ゴンザは科学アカデミーのボグダーノフの下で、露日辞典の編纂に取り組み始めます。

現在でも辞典編纂は並大抵のことではありませんが、パソコンやインターネットどころか、十分な参考資料すらない当時においては途方もないことです。「アルファベット(イロファ)」「神(フォドケ)」「ハム(シオシタブタ)」といった掲載語からは、幼少期にロシアに渡った若者ゴンザが、出身地では普及していないものや抽象的な概念をも把握し日本語で表現していることがわかります。これはゴンザ一人でできることでは決してなく、ボグダーノフが語を提示し、その意味や内容を身振りや実物を交えながら解説し、それを解釈したゴンザが日本語を充て、二人で教会スラヴ語・ロシア語・日本語の知識を総動員しながらロシア文字を用いて記述するという協働活動があったものと考えられます。

二人はこの作業を約2年でやってのけ、1738年に約12,000語を有する『新スラブ語・日本語辞典』が完成しました。ゴンザは同時期に『露日単語集』(1736)、『日本語会話入門』(1736)、『簡略日本語文法』(1738)、『友好会話手本集』(1739)などの作成にも関わりました。幼少期に海に出て遭難し、同乗者や父の死を経て異国の地で過ごした彼の人生が容易ではなかったことは想像に難くありませんが、その苦難に満ちた経験は、彼が手掛けた教材や辞典の膨大で緻密な内容と圧巻の成果の裏返しのようにも感じられます。

本辞典は、「ネブル(眠る)」「ダレタ(疲れた)」「シタガ(白髪)」「フユ(怠けて)」のように、ゴンザの故郷の薩摩方言の影響があること、また、ゴンザの日本での生活が幼少期に限られていたことで同時代の成人に比べ語彙力が乏しかったことなどが今日では指摘されています。確かに、実用的な辞典、日本語教材として必要十分だったかというと必ずしもそうではない面もあったかもしれません。それでも、ボグダーノフとゴンザが世界初の露日辞典の開発をやり遂げたことは奇跡といえ、その後に与えた影響、さらには、現在「ロシア資料」「外国資料」「ゴンザ関係文献」とも称され日本語やロシア語の言語史研究の重要資料となっていることを考えると、極めて意義深く重要な辞典であると考えられます。

ゴンザは、この『新スラブ語・日本語辞典』の完成を見届けるかのように、翌年、二十歳を少し過ぎた年齢で夭折します。

ロシアの日本語教育の発展

時計の針を戻しましょう。国際交流基金の調査によると、現在、ロシアの日本語学習者数は約1万人で機関数は約130に上り、東欧地域では最多です〔国際交流基金2017・『海外の日本語教育の現状2015年度日本語教育機関調査より』〕。

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教師数は約500人に達し、調査が開始された1974年からの40年間で学習者数は約28倍、教師数は12倍に増加しています。この成長を支えた重要な柱の一つが、1991年にモスクワ国立大学附属アジアアフリカ諸国大学の日本語講座座長ゴロウニン教授を会長として発足したロシア日本語教師会です。本教師会はロシアの日本語教育機関や教師、学習者をつなぎ、研究や実践、教材開発を進めました。また、日本語弁論大会、日本語教師会総会などのイベントも毎年開催しています。

一連のロシア日本語教師会の活動は、日露の相互理解促進と友好親善に寄与する重要な活動とみなされ、2012年には日本の玄葉光一郎外務大臣から表彰されました。そして、その拠点として中核を担い続けたモスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学科は2014年度国際交流基金賞を受賞しました。

300年にわたる教師リレー

国際交流基金賞の受賞記念講演会では、モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学科長ステラ・アルテミェヴナ・ブィコワ教授による『300年にわたるロシアでの日本語教育の系譜に連なって』と題する講演が行われ、ロシアに花開いた日本学と日本語教育の歩みが各時代の功労者の偉業とともに紹介されました。そして、その中で、最初の日本語教科書、辞典を手掛けた人物として挙げられたのがゴンザだったのです。

300年にわたる教師リレーを経て、国際的な表彰や受賞を受けるにまで発展したロシアの日本語教師の活動を、ゴンザはどのような気持ちで見ていることでしょうか。壮絶な運命の中で、懸命に教材や辞典編纂に取り組んだゴンザに思いを馳せるとき、いつか将来、日本とロシアの人々が自身の辞典を使って友好的に語り合い、相互に学び交流する時代を夢見ていたようにも感じられます。

ゴンザの魅力と先人たちの築いたもの

ゴンザの偉業は、現代に入っても研究論文や学術書、伝記、小説、脚本、テレビドキュメンタリーなどさまざまな媒体で描かれ伝えられてきました。ゴンザ通り(鹿児島市)、ゴンザ神社(いちき串木野市)、ゴンザ像(同)も設けられ、さらには、ファンクラブも組織されています。そうした背景には、ゴンザの辿った運命と、それを受け入れ、ひたむきに学び教えた人生への人々の畏敬の念があるのではないかと私は思います。

ゴンザに限らず、日本語教育や国際交流の発端や発展を担った人々は、必ずしもそれをはじめから望んで受け持ったわけではないことがあります。周囲の理解が得られない状況であったり、場合によっては、戦争などの重圧の中で摩擦や対立の間に立って進めなければならなかったりしたこともありました。しかし、そうした苦難の中においても、一筋に力を尽くした人々がいたことで、今の私たちは日本語教育に従事することができます。

ゴンザの人生と編纂された比類なき辞典、その後に続いた300年にわたるロシアにおける日本語教師リレーからは、現在の日本語教育も国際文化交流も、そうした人々の努力あってのことであることに改めて気づかされます。そして、それらの人々の物語を、我々は決して忘れてはならないと考えられるのです。

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ゴンザ(1717〜1739)

1717年、鹿児島生まれ。1728年、舵手の仕事をしていた父に連れられ17名で薩摩国の港を大坂に向け出帆。嵐に遭い約半年間の漂流を経てカムチャツカへ辿り着く。生存した2名のうちの一人がゴンザであった。1733年、当時の女帝アンナ・ヨアノヴナに謁見。その後、ロシア正教の洗礼を受け、神学校や科学アカデミーでロシア語を学ぶ。1736年、女帝の命により科学アカデミー付属日本語学校の教師となり、ボグダーノフの下で教材作成に取り組み、1738年には世界初の露日辞典『新スラブ語・日本語辞典』を完成させた。1739年没。その壮絶でミステリアスな人生、残された資料は人々の心をひきつけ、300年を経た現在でも研究論文や学術書、伝記、小説、脚本、テレビドキュメンタリーなどさまざまな媒体で考察されている。

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執筆/田中祐輔

筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、東洋大学国際教育センター准教授。著書に『2020年日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、『日本語教育への応用』(共著・朝倉書店)などがある。2018年度公益社団法人日本語教育学会奨励賞受賞。第32回大平正芳記念賞特別賞受賞。第13回公益財団法人博報児童教育振興会児童教育実践についての研究助成優秀賞受賞。
【科学技術振興機構researchmap】https://researchmap.jp/read0151200/

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