返還後に始められた朝礼でのこどもたち〔1971年・東京都小笠原村父島〕
東京から南に1,000キロ離れた島々で構成される小笠原諸島は、その豊かな文化と自然から世界自然遺産に登録され、毎年多数の観光客が訪れています。本州からの移住者も多く、父島では9割を占めるに至っていますが、1968年まではアメリカの施政権下にありました。そこでは英語で教育が行われ、商店ではドルが通用しました。
今回のコラムでは、今から五十年前の小笠原返還をめぐる児童教育に寄与された赤間泰子教諭の日本語教育物語をご紹介します。(田中祐輔:東洋大学准教授)
小笠原の歴史とことばの変遷
小笠原諸島は30余の島々から構成されますが、生活者が居住するのは人口約2,500人の父島と、人口約450人の母島のみです。父島には小笠原村役場や東京都の小笠原支庁、警察、小・中・高等学校が設置されています。
父島の歴史は、1830年に米国出身のナサニェル・セーボレーをはじめとする欧米人が移り住んだことからはじまり、1853年にはペリー提督が立ち寄った記録も残っています。太平洋戦争時には日本の軍事施設が設けられ、戦時中は島民の多くが本州に疎開しました。第二次世界大戦終戦以降は、連合国軍の占領下におかれアメリカ軍の占領担当地域になり、1946年に欧米系島民129名が帰島しました。その間、教育制度もアメリカ式が採られ1968年の小笠原返還時まで続きました。
こうした過程では、島で生活するこどもたちへの教育言語も英語と日本語とを行き来する形となり、とりわけ、終戦から返還に至る約二十年にわたる英語を用いた教育からその後の日本語を用いた教育への劇的な変化は日本語教育の必要をもたらしました。
求められたこどもたちへの日本語教育
返還にともなう日本語教育の重要性は国会でも議論され、1968年3月9日の衆議院予算委員会では次の発言が記録されています。
小笠原の現在における島民の子弟は、小中学校の段階の教育は米国流の教育制度で現にやっておるわけでございます。復帰後の教育をどういうふうにやるか、これは円滑にやってまいりたいと思います。いろいろ検討いたしております。基本的には、もちろん日本国民を育成するという方針で、わが国の一般の小中学校の教育と同様な教育をやってまいるわけでございますけれども、この移行の時期における教育については、そこに相当なくふうを要する、かようにいま考えていろいろ検討しておるようなわけであります。何と申しましてもことばがだいぶ違いますので、日本語の教育というものに相当重点を置いてやっていかなければならぬだろうと思っております。
〔灘尾弘吉・第58回国会衆議院予算委員会・第15号〕
返還前夜まで父島の教育を担っていたラドフォード提督学校では、当時一年生から九年生までの六十九名が学んでいました。指導には英語が用いられ、教科書も全て英語で書かれていました。こうしたアメリカ式の教育から日本式の教育への移行の中で最も重点が置かれたのが日本語教育だったのです。
重要な役割を果たした派遣教諭の日本語教育実践
こうした背景から、日本式教育のために設立された小笠原小学校と、そこで教えるために派遣された教師たちへの期待は大きく、東京都の教員を対象にした公募では厳正な審査が行われました。この時選ばれた初代派遣教師の一人が、赤間泰子教諭でした。現在では“JSL児童”と呼ばれる日本語を母語としない島のこどもたちに対し、五十年前はどのような教育が実践されたのでしょうか。
赤間教諭によると重点的に取り組まれたのはやはり日本語そのものの教育だったそうです。
日本語を一生懸命に教えるのがメインだったんです。やっぱり、当然返還前の学校では日本語ができなかったから、「一生懸命勉強しようね」って言ってやりました。みんな努力していましたけど、苦労していましたね。でも、教科書は国語の、小学校1年生からの国語の教科書をみんなに渡して、「あいうえおかきくけこ」とやりました。
〔2018.3.24インタビュー・聴き手筆者〕
国語の授業での赤間教諭〔1969年・東京都小笠原村父島〕
指導した多くのこどもたちのその後の人生も見てきた赤間教諭は、それぞれの苦労も感じていたそうです。スムーズに日本語を習得できたこどもたちと、そうではなかったこどもたちとの分岐点は中学生にあたる年齢にあったと赤間教諭は振り返ります。
返還の時、中学ぐらいの子じゃないと、日本語がついていかない。返還の時、高校の歳になっちゃうと難しかった。卒業してから言葉の壁っていうのがね、どうしても出てくる。今振り返れば、かわいそうだったと思います。父島の小笠原支庁に就職したりしても、辞書を引き引き事務をやったりしたっていう話を聞きますね。返還当時は、まわりも苦労していることが分かっているから、親切に教えて、それでよかったんだけど。だんだん、そういう歴史を知らない人も多くなって、さらに、内地から赴任してくる人たちも事情がわからない人もいるから、そういう中では苦労したんです。かわいそうな子たちがいましたね。
〔2018.3.24インタビュー・聴き手筆者〕
終戦から1968年の小笠原返還時まで約二十年続いた英語を用いた教育が、一夜にして日本語を用いた教育へと変化したことは、そこに生きていたこどもたちの人生にも多大な影響を与えました。赤間教諭はそうしたこどもたちの苦労に胸を痛め、社会で生きていくための日本語力を身につけられるよう日本語教育に力を尽くしました。着任から退職後の現在に到るまで実に五十年以上を父島で暮らし、現在では家族や教え子たちに囲まれ穏やかな日々を過ごしています。
JSL児童へのことばの支援
令和の新しい時代を迎えた今日。私たちの社会は国際化が進み、当時の父島のこどもたちのようなJSL児童は日本全体で四万人を超えます〔文部科学省・2019〕。こどもたちの中には、学習困難を理由に不就学になるケースも見られ、大きな社会問題となっています。
我が国で生活するこどもたちが、その属性や出身に関わらず等しく学び、豊かに暮らすことのできる社会が求められているといえます。こうした状況の中で、五十年前に取り組まれた父島での日本語教育を振り返ることはとても大切で、数多くの示唆が得られるといえます。中でも、赤間教諭が語られた、こどもの卒業後の人生にも目を向けた教育のあり方が、今、まさに問われていると考えられるのです。
日本語を学ぶこどもたち〔1968年・東京都小笠原村父島〕
赤間泰子(あかま やすこ)
1943年東京都新島村式根島生まれ。伊豆七島の学校長などを歴任した父と小学校教員の母の下で育つ。1966年3月東京学芸大学卒。1966年4月に東京都公立学校教員に採用され、1968年の小笠原返還前日である6月25日に父島着任。小笠原村立小笠原小学校の開校に立ち会い、以後、父島の子どもたちへの日本式義務教育に尽力した。
執筆/田中祐輔
筑波大学と早稲田大学大学院で日本語教育学について学び、国内外の機関で教鞭を執る。現在、東洋大学国際教育センター准教授。著書に『2020年日本語教育能力検定試験合格するための本』(分担執筆・アルク)、『日本がわかる、日本語がわかる』(編著・凡人社)、『現代中国の日本語教育史』(単著・国書刊行会)、『日本語教育への応用』(共著・朝倉書店)などがある。2018年度公益社団法人日本語教育学会奨励賞受賞。第32回大平正芳記念賞特別賞受賞。第13回公益財団法人博報児童教育振興会児童教育実践についての研究助成優秀賞受賞。
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